ケータイ辞書JLogosロゴ 一本木村(近世)


青森県>今別町

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。松前街道沿いの村で,耕地が少なく,主に漁業に従事していたためか,江戸期の郷帳類には村名が見えず,村高は,「旧高旧領」のみに見え260石余とある。中心の村元から東の海岸沿いには,山崎・大泊・袰月【ほろづき】・砂ケ森・奥平部の各村があり,これらの諸村はそれぞれ一村として扱われたが,まとめて一本木村と把握されることもあった。寛政2年の高山彦九郎の「北行日記」によれば,家数は10軒ばかりとある。享和2年の伊能忠敬の「測量日記」では,家数14軒。嘉永3年の松浦武四郎の「東奥沿海日誌」では,「一本木村,従今別村五丁といへ共に唯川一すじを隔るのにミ也,小商人有,人家凡三十軒斗,又此村より左右に道有,右ハ本道,田の中を行也,左リ浜通りにて先にて行合,此浜岸を行バ大に近し,故に歩行のものハ皆浜通りを行也,此辺皆海岸にて柴にて垣を結へり,田に浜風のあたらざる様なるべし」と見え,海岸には浜風を防ぐための垣が設けられていたことがわかる。神社は,集落の西部に稲荷宮がある(安政2年神社書上帳・国誌)。明治2年の諸組村寄帳(弘前図書館郷土資料目録7)では,後方(後潟)組のうちに一本木・山崎・奥平部・袰月・砂ケ森・大泊の各村がそれぞれ一村として見えている。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の「国誌」では,山崎・大泊・袰月・砂ケ森・奥平部の各村が当村の支村として扱われている。同書によれば,支村分をあわせて戸数165,うち本村分は14,村況は「今別湾に沿て南に田野開け西は今別大川に近し……田多く畑少く,土地は中之中,耕耘を専とし,男子多は土地に傭作し,或は漁し又は昆布を采て産とす」という。また,東方の丸屋形森山は当村,および大川平・鍋田・今別の計4か所の入会山であり,近隣の沿岸で産する昆布について「この湾中に生す巾の広ものは一尺長きは一丈に余れり〈三折にして長二尺幅は昆布の兼に以て八九寸に束るを御献にして上昆布と云ふ,津軽家にて旧来柳営に献上ありし矩則なり,それより長け短く幅の狭きを雑昆布と云ふ〉,春月采るものを若生と云ふ,昆布の初生なり,柔脆にして味殊に美なり,当年に生せしは翌年に采らすして初生のみを采るときは成長せる昆布少なき故に多く若生を采ることを禁す」とあり,烏賊は「湾中多くあり,各村采し晡四方に貸名産とす」という。明治7年の県管内村名簿では,山崎村のみが当村の支村として見え,大泊・袰月・砂ケ森・奥平辺(奥平部)の各村はそれぞれ一村として見えている。明治9年山崎・大泊・袰月・砂ケ森・奥平部の各村を合併。この時,各村は当村の字地となるが,もと一本木は村元と改称している。同10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,税地は田58町5反余・畑47町1反余・宅地6町1反余・山林1町6反余・秣場19町6反余・萱野5町4反余で計138町6反余,物産は米・雑穀・鰯・鰈など,民業は「男ハ渡島ニ航シテ其傭夫トナリ,女ハ海ニ家居シテ田圃ヲ耕耘シ,或ハ山野ニ入リ伐薪シ,或ハ海岸巍礁ノ間ニ海草ヲ摘ミ,以テ生ヲ営ム」という。同11年字奥平部の長島甚太郎氏宅一室を借用して開智小学が開校,翌12年の生徒数男23,教員数1。また,明治11年に字袰月に袰月小学が,字奥平部に開智小学(同20年奥平部簡易小学校と改称)が各々開校,翌12年の袰月小学の生徒数男29・女1,教員数1,開智小学の生徒数男23,教員数1,さらに,同13年字大泊の入江平助氏の家屋を借用して大泊小学が開校,翌14年の生徒数男19,教員数1。同年山崎小学(のちの一本木小学校)が生徒数男10,教員数1で開校した(県教育史)。なお,のち昭和33年袰月小学校と大泊小学校が統合され,新しく大泊小学校となる(同前)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数208・人口1,475(男771・女704),馬41,船22(100石積以下日本形船18,100石積以上日本形船4),学校2,物産は米・鮑・烏賊・昆布・槍。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250211
最終更新日:2009-03-01




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