ケータイ辞書JLogosロゴ 浦町村(近世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「寛文高辻帳」440石余,「貞享4年検地水帳」245石余(田205石余・畑屋敷40石余),「寛保高辻帳」440石余,「天保郷帳」360石余,「旧高旧領」296石余。貞享4年の絵図では,上浦町村と下浦町村に分かれている(青森市町内盛衰記)。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「野脇・橋本・奥野」があり(堤村・勝田にも同じ小字が見える),反別は田22町9反余・畑屋敷15町9反余(うち屋敷地5反余),このほかに開発可能地(畑)1反余,沼2反余が見える。また,田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。元禄3年には浦町組に属し,村位は中(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は中とある。はじめは水田と畑地の純農村であったが,青森町の発展とともに青森町に接する当村北部も後背地として発展し,幕末には家数も多かった。神社は,地内橋本に神明宮がある(安政2年神社書上帳)。同社は,寛永3年創建で同20年青森柳町に遷座した浜町神明宮の跡地に,享和2年村中で再建したといわれ,遷座された跡地は長らく「元伊勢」と呼ばれていた(青森市史)。寺院は,地内東方(もと浦町駅跡)に黒石法眼寺末の黄檗宗直指庵があった。元禄14年の開庵といわれるが,のち明治22年鉄道敷設に際し廃庵する。さらにのち昭和26年,浜田字玉川に曹洞宗直指山見性寺として再興される(青森寺院志・見性寺伝承)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年に東津軽郡に属す。明治初年の戸数169,村況は「北青森町に続き,南北に擔を連ね,東西に小街ありて商工雑居し,南北の小路は青森町の鍛冶町に通し,同寺町寺院の裡行に並し,東南は田畑にて農耕の便宜く,青森に隣によって男子は町に出て傭役し,女子は菜花を鬻き或は小店を開行貸販売す,或は味噌を醸り又は莱菔を塩蔵して市に売る,貯積は桶なから売る,其の百千根を蓄る者数家ありと云,浦町漬と称す」という(国誌)。明治9年堤村・勝田村・里見村を合併(青森市町内盛衰記)。なお,明治7年の県管内村名簿には4か村の村名がそれぞれ1村として見えるが,明治初年の「国誌」にはすでに勝田村・里見村が見えず,この2か村は明治初年までに廃村状況を呈し,当村に吸収されていたものと思われる。明治10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,戸数201・人口1,357(男697・女660)とある(青森市町内盛衰記)。同12年の「共武政表」によれば,戸数244・人口1,516(男788・女728),馬132,荷車2,人力車6,学校1,物産は米・大豆・大根。同20年現在の浦町小学校の前身である青森高等小学校が新町尋常小学校に併設され開校する(県教育史)。なお,「明治12年公学校表」にはすでに明治9年開校の浦町小学が見え,当時の生徒数男50とある。同19年青森大林区署(青森営林局)が開設された。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成,字奥野は筒井村の一部となり,のち明治20年代に大字浦町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250314
最終更新日:2009-03-01




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