ケータイ辞書JLogosロゴ 大浦郷(中世)


青森県>岩木町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。鼻和郡のうち。文永5年10月19日の大江光清譲状に「ゆつりわたす つかるはなわのこほり大浦のかうのうち,くわん阿弥陀仏かやしきいんそならひに田〈本田六反,新田五反半〉巳上」と見え,当郷は得宗領で地頭代職にあった大江光清は,二宮の女房に当郷内の田地を譲渡した(新渡戸文書/岩手県中世文書上)。鎌倉期に大江氏が当郷の地頭代であったが,元弘没収地となったのち,興国6年3月27日北畠顕信は大浦郷北方地頭職を勲功の賞として工藤四郎五郎に充行った(同前)。その後,享徳2年下国安東義孝が大浦郷の狼倉館に立籠り,南部氏と戦ったが敗死したという(湊文書/県史1)。文亀2年種里城(現鰺ケ沢【あじがさわ】町)にいた大浦光信が当地に大浦城を築き,その子盛信を配置したといわれる(陸奥弘前津軽家譜)。天文年間の津軽郡中名字に鼻和郡のうちとして「大浦七郷」と見える(津軽一統志/県史1)。また,「鼻和郡三千八百町ハ大浦ノ屋形南部信州源盛信ト申也」とも見え,南部盛信は大浦盛信のことと思われ,大浦氏は鼻和郡一帯を支配下に置いていたことを記している。その後,大浦氏は政信・為則と続き,為信の時に津軽を統一し,文禄3年為信が堀越城(現弘前市)に移るまで,大浦城は大浦氏の拠点であった。古来,岩木山の東麓を大浦と呼ぶならわしがあり,現在の岩木町賀田【よしだ】を中心とするあたりに比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250348
最終更新日:2009-03-01




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