ケータイ辞書JLogosロゴ 大平村(近世)


青森県>むつ市

 々掌祐〜明治3年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部通に属す。村高は,「邦内郷村志」58石余(うち畑18石余)。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」「旧高旧領」には当村の名が見えず,「仮名付帳」には安渡村の枝村として記される。「邦内郷村志」では,家数62,ほかに中山に3〜4軒,人数320,馬61,牛15,漁船2。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数49。当地は港町で,「郷村古実見聞記」によれば,正保2年の絵図に田名部五湊の1つとして大平湊が書き上げられていたといわれ,早くから重要な港湾として位置づけられていた。延宝3年には大畑湊とともに材木積出湊に指定され,元禄8年〜3〜6月に入津した船は60艘に上った(雑書)。田名部七湊の1つ。檜を中心とした材木が主な移出物で,ほかに〆粕・布海苔などの海産物も積み出した。同湊には湊役所があり,また大坂屋・瀬波屋・新谷などの廻船問屋がおり廻船問屋は大問屋に指定されていた(大湊町誌)。このように諸国の廻船が輻湊し殷賑を極めたところであったが,近世後期になると西隣の安渡湊に海運の中心が移り,大平湊は衰微していく。寛政5年の「南部領北郡浜方村々道筋書付」には同湊について「近年ハ別而遠浅ニ成,船着岸無シ」と記されている。嘉永3年の「東奥沿海日記」には,「人家三十軒斗。漁者農家ならびに松前出稼,船方等也。又檜山生業もあり……檜多く繁茂して神さびたり」とある。寺院は浄土宗願求院があり,寛文9年大平新田開拓により田屋村(現東通村)の阿弥陀堂を移して寺院として建立したものという。天明元年〜明治初年に寺子屋の正法堂が開設されていた。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩に所属。明治3年大湊村の一部となる。¬声11〜22年の村名。はじめ北郡,明治11年10月から下北郡のうち。明治11年9月大湊村から分村して独立。同12年の「共武政表」によれば,戸数50・人口266(男138・女128),牛20,馬4,学校1,船2,物産は鱈・海鼠・鮫・煎海鼠・千鱈・檜材・杉材。同年湊役所を校舎にあてて大平小学が開校。開校時の児童数男13・女2,教員数1(県教育史)。同22年大湊村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250374
最終更新日:2009-03-01




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