ケータイ辞書JLogosロゴ 奥平部村(近世)


青森県>今別町

 江戸期〜明治9年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。松前街道沿いの村で,耕地が少なく,主に漁業に従事していたためか江戸期の郷帳類には村名が見えない。今別川河口の一本木村から平館村にかけての海岸沿いには,当村と同様な村として山崎・大泊・袰月【ほろづき】・砂ケ森の各村があり,これら諸村はそれぞれ一村として扱われたが,まとめて一本木村と把握されることもあった。また当村は,奥平部と綱不知の2つの集落からなり,時には綱不知村と称することもあった。嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」によれば,「綱不知村,此処も又小湾にして図合船掛り澗有,人家十軒斗,皆漁者のミなり,此上は皆檜山にして甚繁茂せり,又是より岩壁伝へ行事甚難所にして大滝,幅弐尺高弐丈も有べし,又是より大岩の上飛越跳越て少し行,又此処を少し左り海岸に来ると大なる崫有,是を則崫観音と云也,此処を号て鬼泊りと云」と見える。神社は,創立年月不詳の旧村社稲荷宮がある(安政2年神社書上帳)。また,鬼泊の岩屋観音堂は,海雲洞釈迦堂(袰月)とともに津軽三十三観音第21番札所。明治2年の諸組村寄帳(弘前図書館郷土資料目録7)では,後方(後潟)組のうちに一本木・山崎・奥平部・袰月・砂ケ森・大泊の各村がそれぞれ一村として見えている。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の「国誌」では,一本木村の支村として扱われており,家数46,村況は「山を背にし海に面し,田なく畑僅あり,地磽确にて糧乏く出雇漁釣を専業とす,此在東西二区に住す,西を元奥平部と云ふ,これより三丁四十間なるを旧名綱不知と呼しか,今は単に奥平部と云ふ」と記す。明治7年の県管内村名簿では,山崎村のみが一本木の支村として見え,大泊・袰月・砂ケ森・奥平辺(奥平部)の各村はそれぞれ一村として見えている。同9年一本木村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250471
最終更新日:2009-03-01




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