ケータイ辞書JLogosロゴ 奥野村(近世)


青森県>青森市

江戸期〜明治9年頃の村名津軽郡田舎庄のうち青森平野の北東部に位置し,野内川中流左岸にあたる東南部は東岳山地西麓の薬師山・高山の丘尾にかかり,大部分は川原地と台地からなる西に諏訪沢村がある地名の由来は,平野の奥地という立地による弘前藩領村高は,「貞享郷村帳」では寛文4年以降の新田と見え394石余,「貞享4年検地水帳」85石余(田1石余・畑屋敷83石余),「寛保高辻帳」394石余,「天保郷帳」94石余,「旧高旧領」90石余「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「松代・岩田」があり,反別は田1反余・畑屋敷25町余(うち屋敷地4反余),田は上田のみ,畑は上畑から下々畑まで設定されていたこのほかに見取場(畑)1町余,開発可能地(田畑)10町7反余,漆林7町余,漆木1万3,825本,草山7か所,永荒地(畑)6反余,稲荷社地が見える元禄3年には横内組に属し,村位は下(平山日記)宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある当村は畑作を主とする村で,漆木栽培も盛んであった神社は,万治元年創立の稲荷宮があった(安政2年神社書上帳)なお,同社は明治6年諏訪沢村の諏訪野神社に合祀された(国誌)明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の「国誌」によれば,諏訪沢村の記事の中に「旧東五丁に奥野と云支村ありしか今は廃す」とあり,この頃当村は,実質廃村状況にあったものと思われるなお,明治7年の県管内村名簿には一村として見え,のち諏訪沢村に合併したという印があり,明治9年頃諏訪沢村の一部となったと思われる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250482
最終更新日:2009-03-01




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