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桶屋町(近世~近代)


江戸期~現在の町名明治初年~明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町町人地城郭の南東に位置する鍛冶町から大円寺(現最勝院・八坂神社)境内に至る南北の道筋と,...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7250483]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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桶屋町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は長崎外町の1町陸手【おかて】に属した長崎港に注ぐ中島川下流右岸に位置する享和2年の長崎絵図によれば,長崎の北東部に立地し,町並みは南北に延びる町名は桶職人らによって開かれたことに由来するという正保4年の長崎外町ケ所数之帳では箇所数47余(柏原家文書),寛文3年の町の長さ264間・家持55(寛宝日記),同12年の町の長さ274間,実箇所数56,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数4,172坪余,箇所数58,竈数174,戸数205・人数481(男240・女241)地内には慶長19年開創の真宗向陽山光永寺(朱印地格)があり,長崎遊学中の福沢諭吉が寄寓したことで知られるが,明治12年最初の県議会が開かれた場所でもあった乙名職は,明暦2年頃は品川仁左衛門,延宝4年頃は田中与三兵衛であったが,元禄6年から宝永5年まで藤角蔵が勤めて以来,源蔵(宝永5年~享保元年),清濃右衛門(享保元年~寛保元年),清左衛門(寛保元年~明和2年),惣太夫(明和2年~享和元年),惣太夫(享和元年~天保12年),昇一郎(天保12年~安政5年),守十郎(安政6年~明治元年)と藤家が相続した藤家には当町の寛保年間頃から文久4年までの宗旨改帳をはじめ膨大な文書が伝存した(県立長崎図書館藤文庫)明治11年長崎区,同22年長崎市に属す大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には酒店・看護婦会などがあった昭和3年の戸数119,同10年の戸数119・人口599,同50年の世帯数128くんちの傘鉾飾りは,白象とそれに仕込まれた時計,その上に金色の天蓋があり,その中にいるオランダ人が,鐘を打つと,象の鼻がまき上がるというからくりが施されている長崎における傘鉾の代表的なものの1つとして市文化財に指定されている

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は高松城下の1町高松城の南東部に位置する地名は当地に桶屋職人が住まわせられたことに由来する寛永17年高松城下絵図には町名として現れておらず大工町の東部に含まれ,寛政元年城下絵図には桶屋町が示されている弘化元年の城下絵図には現大工町の東半分を占めているように示され,文化年間と安政4年の絵図にも同地域の面する道路に桶屋町と書き込まれているが,明治15年高松市街細見新図にはさらにその東半分の道路に北ノカタ(北野方町)と記されており,この間に当町域に変更があったと思われる新井戸(南亀井町)の嘉永6年水道年賦銀上納割高控によると当町から銀9匁9分が納められ,新井戸から配水を受けていたものと推測される寺院には鳳閣寺があるこれは塩飽【しわく】本島出身の理源大師が大峰登山の記念に大和国吉野郡に建てたものを江戸青山に移し,これが荒廃したのでさらに明治34年に同町に移転したものである境内に鳴かずの池という古池があったという(高松市史・高松今昔記)明治8年の戸数42・人口170(梶山家文書)同23年からは高松市の町名となる同30年頃同町に綿商1・菓子商1・宿屋2・傘商1が営業し,「大日本繁昌懐中便覧」を発行した印刷発売合資会社もあったまた同じ頃の讃岐鉄道高松停車場(宮脇村はちけん屋)から当町までの人力車賃は40~50銭であった(繁昌懐中便覧)明治41年村上タミによって地内に成美女学校が設立され,修身・裁縫などが教えられている世帯数・人口は,昭和19年末30・138,同21年末7・43(高松空襲戦災誌),同35年3・15昭和33年大部分が大工町となり,同39年残余も大工町に編入された...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治13年から湊を冠称ただし同22年の史料には冠称が見えないが,現在は再び湊を冠称江戸期は和歌山城下吹上のうちの町人町であり,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の南西,和歌道西側の武家屋敷地(現小松原通4丁目)西部に接して位置する「寛政城下町図」に,南北に通る道の西側沿い町人地に「ヲケヤマチ」と見える文政13年それまでの小名を町名とした(御城下内町名唱替御通し写/秦野家文書)町名は桶屋の集住に由来すると思われるが,未詳明治2年藪ノ丁と八軒丁の各一部を,同5年東部に接する武家屋敷地を町域に編入武家屋敷地は「安政城下町図」で7家の武家屋敷と吹上御用屋敷が描かれる明治43年日本赤十字社和歌山支部が七番丁から小松原通4丁目に新築移転,その際先の旧武家屋敷地は同支部敷地に含まれた昭和18年同支部は和歌山赤十字病院となり,同20年4月同病院周辺が重要施設並堅牢建築物付近疎開空地帯に指定され,当町は強制疎開が実施された(和歌山市戦災誌)戦災後は同病院西側に住宅地が造成された明治6年には戸数35,男58・女64大正2年37戸・169人...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は名古屋城下の1町町人町の1つ伏見町筋と長島町筋との間の南北道路桑名町筋のうち,杉ノ町筋から桜ノ町筋までの1丁北は桑名町,南は西鍛冶町に隣接する慶長年間清須の桶屋町が移転した清須越の町で,旧名をそのまま用いた町名の由来は,清須に古い家柄の桶師孫左衛門が住んでいたことによる(尾張名陽図会)享保年間の家数48,町役銀1貫69匁(名府予録)町内には真宗大谷派浄教寺・教授寺,浄土宗清水寺があった氏神は郭内天王社(名古屋府城志)東照祭には警固の衆,巻狩8人を出す(名古屋祭)明治4年一部を桑名町に編入,同時に西鍛冶町およびその南に続く武家屋敷地(堀切筋まで)を当町に合併明治11年名古屋区,同22年名古屋市,同41年同市西区,昭和19年同市栄区,同20年からは同市中区に所属昭和11年広小路通,同41年錦1~3丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和17年の町名江戸期は徳島城下の町人町の1つで,明治22年からは徳島市の町名となる貞享2年の徳島市中町数並家数によれば,桶屋町が見え,家数28,町の長さ東西39間とある(民政資料)江戸中期には糀屋庄兵衛が桶屋町の年寄となっており,また明治4年には一乗梶郎が桶屋町年寄補となっている東西の町筋で,北は新魚町,西から南は富田町,東は武家地富田「阿波志」によれば「有支坊,曰紺屋街旧称河野街,河野氏居,此今長浜民宅是也」と見え,紺屋町があり,旧称河野町という紺屋町は,貞享2年の徳島市中町数並家数に町名が見え,東西の片町で,家数12,長さ37間余(民政資料)明治22年戸数32・人口131,財政規模収入44円4銭・支出30円,世帯数・人口は,昭和5年28・141,同10年29・158(自治五十年小史)同17年両国橋1~2丁目・富田町1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の南西に位置する東と南は新魚町,西は南新座,北は新職人町・戸川町に接する町名の由来は,森氏がこの地に桶職人を置いたことによる元禄10年の城下町図によれば,家数44(すべて持家)・人数414(男227・女187)津山家数役付惣町竪横関貫橋改帳によれば,桶屋を28軒数えることができる生活必需品の入れものから防火用・酒・醤油の樽などを製作した八頭神社があり,当町のほか,新魚町・新職人町・吹屋町の4町の神社である同社は明和7年建立,文化15年伏見稲荷を勧請,稲荷と火産霊神を祀ったという神社内に古い2本の公孫樹がある明治初期の戸数42・人口172(津山誌)近年町名のみが残り職人町の面影はない世帯数・人口は,昭和45年40・135,同55年41・104...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は出羽国由利【ゆり】郡のうち城下町本荘の一画をなす慶長7年~元和8年最上氏領(楯岡豊前守代官支配),同8年本多正純領,同9年から本荘藩領町方【まちかた】に属し,東は出戸町【でとまち】村,西は日役【ひきじ】町・後町,南は大町・横町,北は鍛冶【かじ】町嘉永4年3月13日午後八ツ時半,当町太次右衛門より出火し,南西に向かい中町に至って鎮火したという火災がある(本荘自治史)神明社があり,創立年不詳であるが,元禄3年(六郷阿波守政晴による),嘉永6年の2度にわたり再建この境内に皇学家池田実信の碑がある(同前)明治13年中町に新築移転するまで,由利郡役所があった石脇【いしわき】に通ずる交通の要衝であり,夏季夜市が開かれる明治22年以降由利郡本荘町,昭和29年からは本荘市の町名となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は岡山城下の1町,町人地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の西部,外堀の外に位置する西は西川と接し,東は野田屋町・柿屋町・磨屋町,南は磨屋町,北は野田屋町町名の由来は,桶類を製造する者が集住したためという町内には上の町・裏町の俗称があった(吉備温故秘録)天明8年の調べでは,諸物問屋1軒があった(旧岡山市史4)貞享元年の岡山町中御検地畝高地子帳(池田家文庫)によれば,高8石余・畝数7反9畝余,徳米8石余・口米1斗余嘉永7年の家数104,人数271のうち男146・女125(旧岡山市史3),昭和7年の戸数223,人口954うち男471・女483(同前6)同39年野田屋町1~2丁目・磨屋町・平和町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名江戸期は福山城下の町人屋敷地福山城の東,北は上魚屋町,東は府中町・鍛冶屋町,南は深津町,西は米屋町町名は桶屋職人が居住していたことに由来する「備陽六郡志」によれば,町の規模は164間余・2,400坪余,戸数56(本家40・表借家16)「福山志料」では長さ164間余,戸数67・人数176当町には呉服・小間物・櫃・長持の座が認められていた(福山市史)明治21年の戸数63・人口283同22年福山町,大正5年福山市の町名となる同6年の戸数50・人口269昭和20年8月空襲をうける同40年宝町・城見町1~2丁目となる...

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桶屋町(近世~近代)
江戸期~昭和45年の町名・大字名江戸期は彦根の城下町の中の町名城下町西部の町屋地域で,町名の由来は城下町建設当初,桶屋を集住させたことによる元禄8年の戸口(武士を除く)は156人・37軒で,うち大工10,桶屋8,木屋・木挽各2であった(大洞弁財天祠堂金寄進帳)嘉永3年の戸数31,うち借家15(四手町組家持及借家数留書/彦根市立図書館蔵)明治22年,犬上郡彦根町の大字となり,昭和12年に彦根市桶屋町となる昭和45年,住居表示の実施により,現行の城町【しろまち】1丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桶屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は鳥取城下四十八町の1町町人地鳥取城の南,城下町の東部に位置する北は鍛冶町,東と南は寺町,西は職人町と接する町名の由来は,近世初頭,桶屋仁右衛門が居住して桶を作ったことにちなむといわれる(鳥府志)家数は,寛永11年33(因幡志),安永7年112(藩史5)安永7年の表口間数180間余,町役負担85人余(同前)明治9年の戸数82・人口311(鳥取市史)同22年鳥取市に所属明治期以後は住宅地となり現在に至る世帯数・人口は,昭和35年80・264,45年67・243...

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