ケータイ辞書JLogosロゴ 金木村(近世)


青森県>金木町

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」186石余(田162石余・畑屋敷24石),「寛文高辻帳」186石余,「貞享4年検地水帳」1,959石余(田1,760石余・畑158石余・屋敷41石余),「寛保高辻帳」186石余,「天保郷帳」1,620石余,「旧高旧領」2,375石余。寛永15年の大洪水で,「下し(ママ)切原子村より下通り金木村辺迄破損,田地不残泥に埋ミ退転ニ及ぶ,前代未聞の洪水にて大難義」という(津軽歴代記類)。貞享の検地に先立って庄屋礼兵衛が貞享元年に提出した書上帳によれば,反別は給知田地1,805人役7歩(1人役は200歩)・御蔵田地499人役2歩・給知畑366ツ役4歩・御蔵畑54ツ役2歩,屋敷数は計135軒,うち本村109軒(裏屋敷24軒をふくむ)・枝村26軒(裏屋敷6軒をふくむ)。なお,裏屋敷を除いた屋敷105軒のうち62軒が給知屋敷であり手作する者も多く,江戸初期における弘前藩の小知行派開発の実態をうかがうことができる。また,同書上帳にはほかに御蔵(5間・3間)を有する庄屋屋敷,金木川口の御材木御番所,あるいは八幡宮地・不動宮地・惣ぜん宮地・伊勢宮地・雲祥寺寺屋敷・地蔵堂地などを記す(金木郷土史)。当村の支村としては,妻ノ神【さいのかみ】村・居升村・不動林村およびソデ柳村があった。妻ノ神村は延宝4年取立の漆新田村で家数4軒,のちの元禄年間のものと思われる金木新田之図に見えず,すぐに廃村したものと考えられる。居升村の成立は不祥だが,元禄6年任命の御蔵舛取11人のうちに「居升村惣左衛門」と見え,この後村名が見えなくなることから,元禄年間のうちに他に移住したものと考えられる。不動林村は元禄年間のものと思われる金木新田之図に村名が見え,以後明治まで存続する。また,金木発祥の地ともいわれるソデ柳村は喜良市【きらいち】村との間にあったが,貞享元年の書上帳以前に廃村となっており,民家はなく,惣染堂だけとなっていたという(同前)。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「うき須・玉水・沢辺・菅原・朝日山・あしの・神田」があり,反別は田202町9反余・畑39町9反余・屋敷5町5反余,なお,田は上田〜下々田まで,畑は上畑〜下々畑まで設定されており,また,見取場(畑)7反余,開発可能田畑地62町1反余,池床4か所・6反余,材木改番所,漆木17本,留木(鷹待場)2か所・43町4反余,草山2か所,河原3か所・2反などがあり,このほか除地として雲祥寺・八幡社・神明社・不動堂・観音堂が見える。貞享4年弘前藩は当村をふくむ下之切遣を,飯詰組と金木組に分け,下岩崎村以北相内村までを金木組とし,代官役所が当村の金木川と芦辺堰との間(現字朝日山)に設置された(要記秘鑑)。元禄3年には金木組のうちに当村が見え,村位は中とある(平山日記)。のち,代官役所は蒔田村に移転されたりするが,寛政11年には金木組・金木新田抱合の代官役所が当村に設置されている。天和3年金木御材木奉行今助九郎の献策により,当村の金木川口に材木改番所が設けられ,初代金木川口御材木奉行として福士久右衛門・今助九郎両人が任命された(国日記)。なお,元文元年の神原村検地帳にも材木改番所の屋敷地が見えるところをみると,神原村の成立に伴い番所地が神原村内となったものと考えられる。材木改番所では,岩木川を運ばれる御用木極印の確認,家材木ならびに商売木などの払極印をうつことなどを任務としていた(日本林制史資料)。元禄4年それまで高根村に藩の米蔵があったが,年貢米納入に際し支障があるため,当村の不動林に3間・26間の「掘立平屋」の米蔵が新築された。しかし,翌5年3月に強風で倒壊(国日記)。その後,元禄11年には金木川沿岸の村入口付近(現字菅原)に米蔵が新築され(金木郷土誌),金木組のうち10か村,および金木新田のうち5か村,広須組のうち2か村の年貢米を収納した(県租税誌)。当村は下之切通筋に位置し,元禄7年の津軽国中道程之図によれば,下喜良市から当村入口までの距離は13町50間,嘉瀬村内の一里山から分かれる嘉瀬通は当村内制札場で下之切通と合流するが,その道筋では嘉瀬村〜金木村入口の距離17町24間半,また,小田川村通追分〜嘉瀬村通金木御札所の距離1里3町33間であった。弘前藩による新田開発のうち,金木新田は岩木川沿いの堤普請と並行し,元禄11年から深郷田新田として11か村の開発が始まっている(平山日記)。同11年には新田村のうち,川口村百姓半左衛門・豊岡村百姓仁兵衛から初米が献上されている。元文元年に検地が行われる頃までには,当村にも豪農・豪商が現れている。まず,元禄2年には能登屋角兵衛が質屋を許されており(国日記),延享3年の酒屋造石書上によれば,造酒屋として当村の久兵衛120石・左門四郎110石・藤七110石・吉右衛門90石・源左衛門60石が見えている(中里町誌)。また,享保9年には源兵衛が惣右衛門から,安永6年角田吉左衛門が茶碗屋善兵衛から,それぞれ酒株を譲渡されている。弘前藩ではたびたび豪農・豪商らに御用金を課したが,当村関係では寛保3年福帳屋久右衛門に1,000俵の御用米,天明3年御用達宮崎忠兵衛・阿部六三郎・竹内半左衛門・池田善七の4人に200両ずつの御用金が賦課されている(封内事実秘苑)。さらに,天保4年には飢饉救済のため領内の豪農34人に御用金が課されたが,そのなかに当村の池田屋半左衛門200両・角田文右衛門150両と見える(山形日記)。神社は,大永年間北畠家家により建立され,天正年間津軽為信の怨敵退散祈祷が行われ,のち新田開発成就祈願や五穀成就の鳴弦祈祷などがなされた八幡宮が字朝日山にある(安政2年神社書上帳)。同社は安永3年(一説に天明4年)に金木組24か村の総鎮守となる。そのほかの神社として,神明町に万治2年の再建という神明宮,小川町に延宝8年の再建という愛宕宮,山道町に惣染堂(古くは観音堂)・稲荷宮の合社である保食神社があり(安政2年神社書上帳),支村不動林村には不動堂があった。寺院は,一説に慶長元年繁翁茂の開基,寛文7年弘前長勝寺14世聖眼雲祝の勧請開山,文化8年愚全の中興という曹洞宗金木山雲祥寺が字朝日山(寺町)にあり(金木郷土史),このほか,もと東本願寺末で,文禄2年教如の法弟休西坊が金木に草庵を結び,元和2年寺号を許され,宝永2年三世玄貞に本尊寺号下賜があったといい(同前),あるいは寛文4年休西坊が当郡に錫を留め,延宝3年草創という真言大谷派金竜山南台寺(国誌),はじめ宝永5年僧日良が金木新田川内村に庵(妙乗庵)を結び,のち正徳4年荒関利右衛門信孝の帰依渇望により当村に移動されたという日蓮宗青蓮山妙乗寺(金木郷土史),元禄7年教誉浄頓法師が地蔵堂跡地を念仏道場としたことにはじまるという浄土宗朝日山照蓮院(同前)が,それぞれ字朝日山にある。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年北津軽郡に属す。明治2年の戸数306・人口1,611,馬201(同前)。同3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し,これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われたが,同4年の金木組村々士卒水帳によれば,当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子40俵1人,30俵3人,28俵1斗2人,20俵2人,15俵3人であった(弘前図書館蔵)。明治初年の戸数271,うち支村不動林37,村況は「高敞の地に住し,本通・派町・下町等の小名ありて市街をなし,酒醤雑貨稍備り,頗富豪の邑里たり,農民は耕耨の余隙炭薪檜木を出し産業となす…土地は中之中,田多く畠少し」といい,秣場に関して「寅方にあり,三十六丁四方,東は山足に至り,川倉・喜良市両村と入逢ふ」と見える(国誌)。なお,不動林村は明治7年県管内村名簿でも当村の支村と見えるが,のち当村に吸収されたものと思われる。同6年大区小区制が施行されると,当村雲祥寺境内に区務所が設置され(金木郷土誌),近隣17か村の事務を扱った。同11年大区小区制が廃止されると,区務所跡を利用して青森病院金木分病院が設置され,翌12年には公立金木病院と改称(同前)。同病院では,医員3・吏員1が勤務していた(明治13年県治一覧)。明治7年金木郵便取扱所が設置され,翌8年金木郵便局と改称,のち同18年に為替・貯金取扱事務が開始された(金木郷土誌)。明治9年金木小学が開校,開校時の生徒数43(男のみ)・教員2,同18年には笹木千影氏宅地内に校舎を新築移転。明治10年頃の村の幅員は東西2里・南北30町,税地は田233町7反余・畑39町9反余・宅地23町余・秣場360町1反余など計669町9反余,戸数358・人口1,968(男1,002・女966),馬174,船2(50石未満小回船),堰4か所,神社1,寺院4,学校1(生徒男70),物産は米・雑穀(同前)。同12年の「共武政表」によれば,戸数348・人口1,990(男1,008・女982),馬139,人力車3,寺院4,学校1,物産は米・大豆・薪。同22年金木村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250596
最終更新日:2009-03-01




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