ケータイ辞書JLogosロゴ 川村(近世)


青森県>弘前市

江戸期〜明治9年の村名津軽郡鼻和庄のうち岩木川中流左岸の河岸段丘上に位置し,集落の東を土淵堰が流れ,西には砂沢溜池がある地名の由来は,集落の近くに河川が多いことにちなむと考えられる弘前藩領村高は,「貞享4年検地水帳」339石余(田205石余・畑屋敷133石余),「寛保高辻帳」37石余,「天保郷帳」348石余,「旧高旧領」450石余集落は,西浜街道の貝沢村から分かれて野木村へ至る小道筋に沿って発達する「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「池神・恋塚・ふる井」があり,反別は田25町8反余・畑屋敷25町4反余(うち屋敷7反余)の計51町3反余,このうち田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていたほかに開発場として田畑11町余,池床6か所・20町1反余が見え,池床には砂沢溜池が含まれていたと思われるまた漆木は667本元禄3年には藤代組に属し,村位は下(平山日記)江戸末期の御道書明細によれば,戸数51・人口334(男180・女154),駒59なお,同書には二ツ屋とも呼称したという川村派という集落が見え,戸数3・人口17(男8・女9),駒3と記されているが,現在地は比定できない村内の神社は,「貞享4年検地水帳」によれば,権太夫抱えの山王堂と山神社があったこのうち山王堂は,明治初年の「国誌」にある日吉神社を指し,祭神は大国主命・天穂日命・事代主命・麓山祇命山神社は明治5年日吉神社に合祀された白山姫神を指すものと思われ,祭神は伊弉那岐命・伊弉那美命・菊理姫命また「弘藩明治一統志」によれば,八幡宮があり,大浦光信が永正10年創建したと伝え,祭神は誉田別命・玉依姫命八幡宮は明治7年村社に列しているが,本来笹館村にあったものを日吉神社に移したものでないかと思われる(国誌)明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の戸数76(同前)同9年三和村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250709
最終更新日:2009-03-01




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