ケータイ辞書JLogosロゴ 合子沢村(近世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。郷子沢村とも書く(日本林制史資料・横内村誌)。弘前藩領。村高は,「寛文高辻帳」158石余,「貞享4年検地水帳」187石余(田140石余・畑35石余・屋敷地11石余),「寛保高辻帳」158石余,「天保郷帳」198石余(うち弘前本では文化5年改出新田39石余),「旧高旧領」233石余。貞享4年の家数30軒,もと郷子沢村18軒と枝村である小別内松新田12軒とを合わせて一村にしたという(横内村誌)。「貞亭4年検地水帳」によれば,小字に「松森・山崎」があり,反別は田19町・畑屋敷19町5反余(うち屋敷地1町4反余),このほかに見取場(畑)14町余,開発可能地(田畑)18町7反余,地床2か所・1町1反余,漆木2本,松山2か所・4反余,草山15か所・7町6反余,河原地36か所・1町5反余,永荒地(田畑)8町余が見える。また,田は上田から下々田まで,畑は中畑から下々畑まで設定されていた。元禄3年には浦町組に属し,村位は下(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある。当村は稲作と畑作がほぼ半々の農村で,南部の山間には松山・草山があった。とくに松山は弘前藩の強い統制をうけた。宝永元年には「郷子沢村領松山」の松苗8万本ほどを松仕立の者に植え替えさせる申渡しが藩からなされたし,正徳2年11月には翌年の年始用飾松として合子沢松山の松枝を青森で売らせるように命じた記事もみられる(日本林制史資料)。神社は,地内山手に寛保元年新町野村・牛館村・合子沢村の3か村で勧請し,共同の産土神としたという稲荷神社がある(国誌・青森市史)。同社はのち明治6年に合子沢神社と改称するが(国誌),現在は再び稲荷神社と称している。寺院は,元禄13年弘前最勝院の隠居弘栄の開基と伝わる真言宗不動庵がある。同庵は明治3年に類焼するが,翌4年には再建された(青森市史)。同年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数32,村況は「北は新町野村に続き,南に山を擁し,東西に田畑あり」という(国誌)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数34・人口209(男122・女87),馬42,物産は米・薪・炭。同22年横内村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250845
最終更新日:2009-03-01




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