ケータイ辞書JLogosロゴ 楮町(近世〜近代)


青森県>弘前市

江戸期〜現在の町名明治初年〜明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町町人地城郭の南東に位置し,松森町からの東の小比内【さんぴない】・高崎に向かう道筋の町延宝5年の弘前惣御絵図に楮町と点羽があり,20軒の屋敷割りがある町の本格的な形成は,元禄14年に紙漉町喜兵衛が薄命によって楮畑と楮作人20人分の屋敷地と材木を与えられたのにはじまる(国日記)町名の由来はこの椿によるもので「こうぞ」町が本来の呼び方であろうが「こうじ」町と呼んでいる享保4年頃の町屋数円には町屋22軒がある宝暦6年の楮町支配町屋鋪改大帳には本楮町とあり,町屋28軒がある本楮町とは当町裏にできた新楮町に対する町名であろう明治初年の「国誌」によれば,戸数59,町域は「松森町中程より東北の方高崎村小比内村に行通にあり,長上は松森町より下は新楮町まで二丁七間一尺,幅三間」と見え,町の状況は「当町日雇を業とするもの過半にして農商は少し」とある明治22年弘前市に所属以後当町は松森町裏の住宅地であったが,大正6年市外富田から出火した火災および昭和3年富田町から出火した大火で類焼した弘前広域都市計画駅前南地区土地区画整理事業によって街衢は整備され,中央部には豊田大橋を経て城東地区(旧豊田村)へ通じる大通り都市計画街路(弘前黒石線)が走る一部が同41年大町1〜2丁目,同58年南大町1丁目となり,同年新楮町の一部を編入昭和3年の賦課戸数46.世帯数・人口は,同25年74・352,同50年68・201,同55年58・183.
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250848
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ