ケータイ辞書JLogosロゴ 五戸(中世)


青森県>五戸町

 鎌倉期から見える地名。糠部郡のうち。当地は糠部郡に置かれた一戸〜九戸という九部(戸)制の1つである。寛元4年12月5日の北条時頼下文に「下 陸奥国糠部五戸補任地頭代軄事,左衛門尉平盛時,右人為彼軄守先例可令知行之状如件」と見え,平盛時が当地の地頭代職に補任されている(宇都宮文書/鎌遺6768)。下って,建武2年9月27日三浦介平高継は足利尊氏から「陸奥国糠部内五戸」を充行われている(宇都宮文書/岩手県中世文書中)。糠部郡には鎌倉中期以後北条氏の地頭領が拡大したが,このうち五戸の地頭代職には寛元4年平盛時が補任され,寛元以前より同氏はその地位にあったとみられる。その後南北朝初期には平高継が五戸を給与された。この間,永仁5年11月21日の五戸郷々検注注進状に「注進五戸郷々のけんちうの事」と見え,五戸郷々として「へらいのかう」「またしけのかう」「なかいちのかう」「いしさわのかう」「うさきない」「といまないの」「きたならさき」「せきふくろのかう」「にいた」「おほさき」「おほもり」「いち河」「こいち」「ととろき」の各田数と公田数が記載されている(新渡戸文書/岩手県中世文書上)。田数の総面積は62町3反4合,公田の総面積は32町2反,このうち「にいた」以下はいずれも田数が少ないうえ公田がなく,郷として把握されるにいたらない散在耕地と思われる。なお,この検注注進状は,公事徴収の基礎としての公田数の把握を目的として,五戸の地頭代により作成されたもの。正安3年4月26日のきぬ女家族書上案には「五戸ならさき」の地名が見える(同前)。その後,当地は戦国期に三戸南部氏の支配下に入り,戦国期と推定される年未詳10月16日の書状で,南部晴政は八戸(根城)南部氏にあてて「七戸にも五戸米田口無透御契候由承候」と申し送っている(遠野南部文書/岩手県中世文書中)。次いで,天正16年9月17日および同年9月22日に南部信直は木村杢に,津軽から退去してきた者のために五戸の町並みの整備を命じている(木村文書/岩手県戦国期文書)。木村氏は当地の古館・五戸館に居館した三戸南部氏の家臣で,慶長8年11月9日木村杢助は南部利直から「糠部郡五戸之内上新田」で150石余の知行地を充行われている(同前)。また,文禄3年4月2日の南部信直書状によれば,当地の多門坊が南部氏の定宿を利用することが認められており,多門坊は五戸の先達であったと思われる(細川文書/岩手県戦国期文書)。五戸川流域を中心とし,一部浅水川流域を含む地域で,現在の五戸町・倉谷村・新郷村と八戸市の北部を含む地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250907
最終更新日:2009-03-01




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