ケータイ辞書JLogosロゴ 小人町(近世〜近代)


青森県>弘前市

江戸期〜現在の町名明治初年〜明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町武家地城郭の東北に位置する南には若党町が並行して東西に走り,東は禰宜町,西は馬喰町に続くまた北は大久保堰を挟んで和徳村に接する町名の由来は,当初「御小人」が居住したことによる正保3年の津軽弘前城之絵図には,現在の若党町(当時は歩者町)の一部と笹森町の北半分も含めて小人町と記されるが,これは身分上の町割りで町名ではない慶安2年の弘前古御絵図では,現在の若党町(当時御徒町)の一部を含めて小人町を形成しており,町内には小人96軒(うち空屋敷24)の屋敷があったなお,小人は現笹森町の北半(当時八幡町下町御小人町とも),現長坂町の北半(当時座頭町下町御小人町とも),現蔵主町の北半(当時くろうず町下町御小人町とも)にも居住していた寛文13年の弘前中惣屋敷絵図では亀甲町の東側が御小人町と記され,当町は侍町と見え,23軒のうち小人6軒,他は武家屋敷または町屋である元禄13年の弘前侍町屋敷割では,現若党町の西半分が小人町となるが,小人屋敷は3軒のみで,町名は名目だけとなった寛政改革の藩士土着令によって当町の藩士も在方へ移住したため,寛政5年には御家中潰町の1つとなった(平山日記)しかし,同令廃止後には藩士が帰住し,享和3年の御家中町割では42軒の御家屋敷が見える以後当町には小人の居住はなく幕末に至った江戸末期には,元禄11年弘前惣御絵図にみえる当町北側の新座頭町を吸収したと考えられる当町の北側,向外瀬【むかいとのせ】村の地内にある明神宮は町方の神社として当町に属していた明神宮は寛永4年に弘前城内から移建されたもので,弘前領内の明神宮の筆頭として社領30石を有した正保3年の津軽弘前城之絵図には伊勢太神宮とあり,社前には神主2軒が見え,寛文13年の弘前中惣屋敷絵図には伊勢堂と記されているまた延宝5年の弘前惣御絵図には明神宮と見えて社前に社人6人の屋敷があり,寛政12年の分間弘前大絵図では社前に神主斎藤長門ほか5人の社人と,長門領として特に割り当てられた屋敷2軒がある明治初年の「国誌」によれば,戸数56,町域は「上は亀甲町より下は馬喰町に至り,折曲りて長三丁八十八間・幅三間」とあるまた同書には明神宮について,「当町中程より北の方二丁田を隔てゝ明神宮あり,社前家六軒あり」と記されているなお,明神宮社地は昭和45年10月の町名町界改正で,現在は東城北2丁目に属する明治22年弘前市に所属明治以後当町は住宅地として江戸期とほとんど変化がない一部が,昭和45年東城北1〜2丁目となる同53年5月若党町・馬喰町とともに仲町伝統的建造物群保存地区に選定された閑静な住宅地である昭和3年の賦課戸数57世帯数・人口は,同25年87・413,同50年123・394,同55年124・360
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250920
最終更新日:2009-03-01




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