ケータイ辞書JLogosロゴ 佐井村(近世)


青森県>佐井村

 江戸期〜明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部【たなぶ】通に属す。正保4年の南部領内惣絵図に村名の記載はなく,古地図の初見は元禄12年の絵図で,「佐井 無高」とある。天和2年惣御代官所中高村付に古佐井村・大佐井村が見えるため,両村を合した佐井村としての村落支配の確立が元禄年間以降と思われる。「元禄郷帳」に記載はないが,これは無高の村であったことが理由であった(文化4年南部大膳大夫領分郷村仮名付帳之内御尋之趣御答書帳)。延宝元年田名部通の検地が実地されたとされるが,委細は不明(邦内貢賦記)。村高「邦内郷村志」95石余(うち畑92石余),「天保郷帳」「旧高旧領」もともに95石余。佐井湊は元禄12年田名部七ケ湊の1つに指定される(郷村古実見聞記)。ただし,それ以前の正保年間にはすでに湊として機能しており,正保2年田名部五ケ湊の指定から外された際に,「佐井,川内を船着湊に此両所の者ども訴訟申候」(佐井村誌上巻)とある。また,「雑書」寛文3年8月4日条に,当湊に上方船・松前船が着岸したとある。江戸期を通して南部檜と地先の海産物の積出港として繁栄。これにともない町場も形成され,享和3年の仮名付帳には古い佐井に浜町・谷地町,大佐井に浜町・新町・風呂屋小路の5町,幕末の漆戸茂樹「北奥路程記」ではこれに加えて古佐井に大町・川原町,大佐井に中町があり,8町となっている。河水の利,潮流の便にも恵まれており,「邦内郷村志」には「免石船二艘,五百石宛,能登屋長左衛門,伊勢屋与兵衛,往古称十万金豪家,于今家存而巳也,往古繁昌地,田名部北通湊云第一番,処々有妓家」と,その繁栄の様子を記す。廻船問屋も多く定着し,元文3年の「田名部海辺問屋定」に佐井の廻船問屋として,菊地伝兵衛・品田太治兵衛・樋口三九郎・西村又兵衛・小谷七郎兵衛・能登屋善兵衛が署名している。彼らは「仕込み親方」として漁民の再生産にも深くかかわっていた。文化2年より能登屋が本陣となったが,それ以前は伊勢屋であった。両家の最盛期は元禄〜享保年間であり,文化・文政年間以降は松屋の全盛期となる。文化14年から文政12年までの記載がみられる「廻船御客帳」(松谷家文書)によれが,佐井入津の船籍は,津軽領諸湊は無論のこと,北は松前から南は越前・若狭に至り,さらに播州・伊豆・相模にまで及んでいる。年次別の隻数は不明であるが総数448隻,なかでも越前三国湊が圧倒的に多く71隻を数える。松屋と取引きのあった商人には,銭屋五兵衛・本間正七郎・加賀屋与助らの名もみえる。当村には,天和元年酒屋2軒(邦内貢賦記),享保2年同7軒,同8年質屋8軒があった(宇曽利百話)。しかし,寛延年間の頃には酒屋はなくなり,質屋も1軒となった(佐井村誌下巻)。「邦内郷村志」によれば,当村の家数138・1,215,牛76・馬126,地船5・漁船25,うち本村をのぞいた集落別内訳は矢越12・磯谷20。また,「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数172,集落別内訳は佐井湊のうち浜町23・谷地町35,大佐井のうち浜町32・新町21・風呂屋小路15,ほかに原田18・矢越9・磯谷14・畑小屋5,また黒岩に遠見御番所が見える。「佐井村誌」によれば,享保6年にける村政機構は肝煎の下に地役人2人,組頭3人,留書1人,小走1人であり,百姓負担として「夫伝馬村割付御百姓かつき」の記載がある。また,文化9年の「乍恐御受奉申上候事」によれば,田名部大畑惣郷割の「田名部町定役銭」と「夫伝馬諸役懸」が諸役負担としてあげられている。嘉永3年松浦武四郎「東奥沿海日誌」によれば,当村と湊の様子を「此処は東黒岩岬,西矢越岬と対峙して一湾をなし,千石巳上の船は五六艘,其巳下六七百石位の船は二十艘もかゝるによろし,船番有,人家弐百弐三十軒,船問屋,小商人,船夫,檜山嫁,農家,漁師入交りなり,実に大富湊成べし,此処より向は函館在当別,三谷,帰去内辺へ当たると聞り,函館へは海上七里といへ共近しと思はる,壱人前乗銭金弐朱」と記す。当村の枝村には原田・矢越・磯谷・畑小屋(川目)がある。原田は享保18年与力渋田庄助が原田野小川より材木一里塚までの,水の目檜山を除いた所に高15石の新田開発を願い出,元文年間頃に百姓を移したといわれる(佐井村誌下巻)。「東奥沿海日誌」には,「此処も佐井の出郷なり,人家十四軒,漁者にて農業致多くハ松前嫁のもの斗也,此上に少し畑有,渡りて広平野行事凡二十七八丁にして左右へ道有,右ハ奥州通ひ道也」とある。川目には鉛山があったといわれ,川目戸山船山は,天明元年田名部の熊谷又兵衛が経営,寛政10年頃大畑の菊池与左衛門が経営したとされる(佐井村誌)。矢越については,「東奥沿海日誌」に「人家十一二軒,漁者にて少ヅツ稗畑を作るよし,其故に人家至而富子也」と見える。磯谷ははじめ大磯谷と中磯谷に分かれていたというが,不詳。磯谷の海上には大魚【およ】島がある「東奥沿海日誌」では,「此処浜形北向にして材木岬と矢越と対峙して一小湾をなし,実によき船間なれ共海浅くして六百石巳上の船は入がたし,神家三十軒斗,漁家,農家,松前出并檜山業等也,故に村家至て富貴ニ暮せり」と見える。佐井湊は享和3年箱館への渡航地として幕府から指定されて以後,湊の性格に変化がみられるが,そのにぎわいは続いた。しかし,幕府役人らの通過は助郷役負担の荷重をともない,文化8年には北通惣村肝煎連名にて定役銭減免の愁訴が行われている(佐井村誌)。「原始謾筆風土年表」文化3年7月条に,遠山金四郎や最上徳内らの通過がみられる。文久3年「御番所記録」(佐井村誌下巻)により当時の様子をうかがうことができる。江戸後期には海岸防備のため,寛政5年黒岩に船遠見番所(郷村古実見聞記),文化5年本村に大砲3門,矢越に同8門(原始謾筆風土年表),嘉永年間頃には磯谷の釜の前・ダラダラ・日和山,矢越の藤兵衛山,本村の岡弁天・黒岩・伊勢堂に砲台,安政2年伊勢堂に船遠見番所がそれぞれ設置され(東奥沿海日誌),安政3年には台場を統合し,岡弁天に大砲8門が設置された(宇曽利百話)。盛岡藩の留山制度の成立にともない,当村の檜山も多く留山となった。「邦内郷村志」によれば,当村の檜山は,原田・小佐井川・温泉川越・滝・戸沢の5山となっているが,時期によって変遷がみられる。廻船問屋の松屋は檜山払下げをうけた山師でもあり,このほか4人の檜山払下げ人が享和2年〜文化12年の間に確認される(原始謾筆風土年表)。当村の神社は,「邦内郷村志」によれば,八幡社,薬師堂,田名部円通寺末の曹洞宗祥岩山長福寺,盛岡大泉寺末の浄土宗景岩山発信寺,田名部徳玄寺末の浄土真宗慶順山法性寺,田名部善宗寺末の法華宗大法山常信寺,相州清浄寺末の時宗八幡山伝相寺,盛岡永福寺末の真言宗降峰山祥海寺がある。これら寺社と廻船問屋との関係は深く,長福寺の有力檀家に伊勢屋があり,その梵鐘は寛政6年越中で鋳造され海路で運ばれたものである。同寺蔵の木彫十一面観音像は円空作。また,常信寺の開基は越後屋半兵衛,法性寺の開基は能登屋長左衛門であり,発信寺にも有力檀家として西屋・桶屋などの廻船問屋がいた。八幡宮の祭礼は京都流であり,西廻り海運によって伝えられたものである。なお,八幡宮の矢根【やのね】(箭根・箭根森)八幡宮とも称され,「邦内郷村志」に「白黒石数箭根生社地」とあり,古くから石鏃(矢ノ根石)の出土で知られるところからこの名称がついたと思われる。また,同社は康平5年源頼義によって勧請されたという伝承があり,これと結びつけて頼義が下北に住む悪鬼を神矢によって射殺した時,矢ノ根石が沢山あった八幡宮のあたりから矢を放ったことに名称の由来があるともいう。さらに「陸奥話記」の宇曽利蝦夷を佐井蝦夷を中心としたものとする説もある(笹沢魯羊各書)。祥海寺は廃寺となったと思われ,「国誌」に見えない。このほか,支村である原田に享保4年勧請で八幡太郎義家を祀る腰掛八幡宮,矢越・磯谷にもそれぞれ八幡宮がある。これら3社は,のち明治初年の一時期,本村の八幡宮に合祀される(国誌)。また磯谷の村端に明神の祠があり,その傍の池沼の水面が白く曇る間は晴天が続き,澄むと降雨になるという伝承がある。当村は海運の発達により文化的水準も高い。寺子屋に,町医三上庸達の三上塾(寛政年間〜明治4年),八幡宮神社岩清水昌の岩清水塾(同上),僧侶石沢宜励の法性寺塾(嘉永年間〜明治元年)僧侶川村俊堂の長福寺塾(安政年間〜慶応3年)があった(日本教育史資料)。三上庸達は師の金沢良斎の代診として勝海舟の治療に当たったこともあり,海舟の遺墨が三上家に蔵されている。菅江真澄「奥の浦うら」に「左井のみなとべなるくすし三上温といへる人」とある温は庸達の父で,杉田玄白の弟子の1人である。また,高野長英と同門で松前藩立入石の田沢春堂,天保3年箱館に造船所を設けた辻松之丞は当村の出身である。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸間,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。同11年下北郡に属す。檜山の国有林編入,明治2年青森〜函館間の蒸気船の就航,船の大型化による港の不便さなどから,明治以降著しい衰退をみ,交通機関の開通も昭和に入るまでなく,当村は寒漁村,出稼ぎの村と化した。明治6年佐井村地券御渡願書によれば,田2町2反6畝16歩でこの地租金14円97銭6厘6毛,畑58町4反9畝18歩で金685円15銭3厘8毛,屋敷7町5反7畝27歩で金249円77銭9厘9毛とある。明治初年の「国誌」によれば,家数231,うち大佐井(中町・浜町・風呂屋小路・新町)90・古佐井(浜町・川原町・寺小路・新町・大町・谷地町など)81,支村原田21・川目4・矢越8・磯谷25とある。同書によれば,当村の村況は「土地下,且水田纔ニ畑モ少ク,粟稗ヲ糧トシ,工農ノ他ハ漁ヲナシ,出雇ヲ専ニス……昔ハ頗る繁昌の所にして妓楼もありて,文化頃まても商家多く米金富有の所にて,当時の如く出嫁する者もなく,且村家の后近山にヒノ木林ありて年々夥しく切出したりしに,此も今は近山を伐尽し,遠ク嶮を渉りて苦楚して流し下せとも古代のことくに買者なく,依て今は村民窮衰し磯谷等へ移せし者もありしと云ふ,且つ松前箱屋形渡海の要津なりしか,蒸気船大船出来てより北島渡海は多く青森となり,大間・大畑・当村等は寥々たる寒村となれとも,斗南の領となりて稍村勢を発作せるか如と云とも,当時はまた侵食を縮脱せり」という。また,同書は,支村磯谷の様子を「海に沿て住す,此の近在は此の区のみならす,男は北島に渡り日雇し,婦女家にありて耕作す,磯谷は海浜波打際に軒を比へ南の向に仮舎を構て作毛糧食を舂唯する所とす,依て一切の農器舟具をこの仮舎に収め,或いは搗又は磨己か様々比隣相尋て家事を成す,日晩て事を了らさるときは米殻を臼に入又莚に擁し,只犬鼠を禦くのみ,誰有て偸者なけれは安然戸を閉つることを知らす,この美風この辺皆しかり」と記す。明治7年岩清水昌氏宅を借用して大間小学佐井分校が開校,開校時の生徒数男48・女2,教員2。同10年佐井小学となり,同16年には大瀬戸に校舎新築移転する(県教育史・佐井村誌上巻)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数266・人口1,349(男678・女671),牛20・馬57,日本形船11(100石積以上3・同以下8),寺院5,学校1,物産は鮑・干鮑・干鰈・海苔・昆布・鹿尾菜・粟・大豆・蕎麦・檜材・杉材・松材・薪・炭・鰹節・鯣・心太草など。明治17年の戸数214,うち課税戸数205(佐井村役場旧記録)。同年下北郡長河西粛四の各村巡察記録によれば,当村から北海道への出嫁家は200名内外とあり,また,同19年の柴太一郎部長巡察の際に提出された資料では,佐井村は海産物乏しく,ただ木材産出と東蝦夷地航海船の風待場所なので昔は唯一の港として富裕な村落であったが,年々木材が減少し,明治維新後航海船の風待ちも箱館に変わり船舶の出入りも絶え,村勢衰退し,現在は農事に従事し養蚕あるいは樹木栽培に努めている,とある(佐井村誌上巻)。明治17年の村ぎめの記録である「一村限協議」によれば,その内容は漁業中心の協議取決めであり,アワビの漁期,採藻解禁日,祭典の経費分担,生活の規則が定められている。特に漁業許可については村惣代のほか漁業総代4人,漁師頭13人の協議によって決定され,漁業者すべてその決定に服さなければならなかった。同22年佐井村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7250980
最終更新日:2009-03-01




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