ケータイ辞書JLogosロゴ 相良町(近世〜近代)


青森県>弘前市

江戸期〜現在の町名明治初年〜明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町武家地城郭の南に位置する北は本町,西は在府町,東は桶屋町に接し,南に南溜池がある寛永末年頃の津軽弘前城之絵図には足軽町とされる正保3年の津軽弘前城之絵図では西側に町屋,東側に足軽屋敷が配置されている慶安2年の弘前古御絵図では侍町とされ,南溜池の東端に相良清兵衛の屋敷があるが,相良清兵衛は肥後国人吉城主相良氏の家老で,後に8,000石を得て権勢をふるい,寛永17年の島原の乱に出兵を拒否して弘前藩にお預けとなったなお「徳川実紀」には同人について「年頃驕縦のふるまひし君命をもちいず,藩政を専らにせしにより,壱岐守頼寛よりきこえあげ,上裁を仰ぐに至れり」「こたび府に召れしに,少しも遅滞せず速に参りしをもて,死罪一等を減ぜられしなり」と記されている3代藩主津軽信義は,清兵衛に合力米300俵30人扶持を与えたという(津軽一統志)寛文13年の弘前中惣屋敷絵図には,当町は侍丁とされ,重臣津軽外記ら37軒の武家屋敷がある元禄13年の弘前侍町屋敷割に初めて相良町と町名が見え,武家屋敷34軒がある町名の由来は,町内にある相良清兵衛の屋敷にちなむと考えられる延享元年5月11日の大火で,北の本町から延焼し,半分の武家屋敷が類焼したという(津軽歴代記類)当町内には高100石以上・金15両以上の藩士が居住を許されていたが,寛政改革による藩士士着令に伴って寛政5年以後は,御目見以上の藩士に屋敷が与えられることになった(平山日記)寛政12年の分間弘前大絵図では32軒,文化4年の御家中町割では31軒の武家屋敷がある明治初年の「国誌」によれば,戸数25,町の規模は長さ3町26間,幅は北側が3間5尺,南側が4間3尺明治22年弘前市に所属明治以後旧武家屋敷街が住宅街として推移したが,昭和22年青森市から移転してきた青森医学専門学校(同19年開校,のち弘前大学医学部)が弘前市立病院を附属病院とし,その後弘前大学医学部附属病院として拡張を重ねた結果,当町の東西に走る町並みは消滅し,同病院の東側と西側にわずかに残るだけとなった昭和3年の賦課戸数48世帯数・人口は,同25年58・324,同50年62・222,同55年82・137(男46・女91)女子の人口が多いのは看護婦寮があるためである
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251011
最終更新日:2009-03-01




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