ケータイ辞書JLogosロゴ 三内村(近世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」251石余,「貞享郷村帳」2,405石余,「貞享4年検地水帳」を欠くが,「寛保高辻帳」2,405石余,宝暦5年改の津軽郡平賀庄鼻和庄田舎庄村々高反別(弘前図書館蔵)では539石余(田468石余・畑屋敷71石余),「天保郷帳」1,705石余,「旧高旧領」713石余。元禄3年には油川組に属し,村位は中(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵),文化8年の御郡中郷村位付帳(同前)でも村位は中とある。宝暦5年改の津軽郡平賀庄鼻和庄田舎庄村々高反別によれば,反別は田61町7反余・畑屋敷20町4反余。当村は水田耕作を主とする村である。村内は2つに分けて把握されることがあり,天明年間の工藤白竜「津軽俗説選」には,「上三内,下三内とて二区あり,何れも桜林也」と見え,菅江真澄「すみかの山」には大三内・小三内とある。なお,小三内(向三内)は当村の枝村として扱われることもあった。当村は桜の名所として名高く,「津軽俗説選」には「外が浜に近き油川組三内は,野も山も一面の桜にして,花盛りの砌りは吉野の出店かと思はるる佳境なり」とあり,「すみかの山」寛政8年4月14日の項には「名におふ三内の千本桜と申て,亦と外になき桜木也,卯辰(天明3,4年)の,世の中凶しかりし年の前までは,三芳野はしらず,ひろき世の中なかにも,かゝるおもしろき花ある処はあらじやと」と記す。神社は,地内沢部に正徳4年の勧請という八幡宮,地内丸山に延宝元年の再建という稲荷社がある(青森市史)。また,向三内(小三内)に正一位稲荷宮があった(享和3年寺社領分限帳・安政2年神社書上帳)。なお,神仏混淆神社調帳(八木橋文庫蔵)によれば,このほかに馬頭観音を祀る惣染堂があったが,明治初年の神仏分離の時に廃堂となったという。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数55,うち支村小三内8,村況は「民居山に倚り,東は田圃なり,土地中之中,田多し」という(国誌)。また,当村には新堤・笹森堤・萢友堤があり,南方に秣場があった(同前)。明治12年の「共式政表」によれば,戸数61・人口392(男202・女190),馬65,物産は米・縄。同22年滝内村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251072
最終更新日:2009-03-01




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