ケータイ辞書JLogosロゴ 城ケ沢村(近世)


青森県>むつ市

 江戸期〜明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部通に属す。村高は,「正保郷村帳」83石余(田81石余・畑2石余),「貞享高辻帳」104石余,「邦内郷村志」268石余(うち給地80石余・角違村分53石余),「天保郷帳」268石余,「天保8年御蔵給所書上帳」214石余(御蔵高131石余・給所高83石余),「安政高辻帳」215石余,「旧高旧領」268石余。「仮名付帳」では,枝村に角違村がある。「邦内郷村志」では,家数67,本村を除いた集落別内訳は泉沢30・角違10,人数224,漁船6,神社は鎮守の牛頭天王宮ほか神明宮・八幡宮,寺院は月照山田名部円通寺末の城沢寺。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の下,家数48,集落別内訳は本町21・一里越16・長下7・新田2・近沢。また角違村の位付は下の下,家数17。嘉永3年の「東奥沿海日誌」には,「人家弐十軒斗。農漁入交り。此処浜に少しの出岬有て則ち安渡村の前迄突出す。又此村の上に城跡有りと聞く」とある。「人家弐十軒斗」とは本村のみの家数であろう。元禄4年創建の神明宮と寛文2年の草創の曹洞宗清沢寺がある。享和2年の「原始謾筆風土年表」では,集落別家数は本村21・角違17・永下7・近沢2。角違の地名の由来は,古く摩利支天堂をつくろうとした匠が墨縄を誤ったことによると言い伝えられており(真澄遊覧記),嘉永3年の家数50(東奥沿海日誌)。神社に宝暦8年再建の金神神社がある。永下は長下,泉沢は一里越とも記される。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治初年の戸数に92,村況は「北は高山の麓曠原の頭にて南北湾の汀にあり,土地菲薄田少く農漁相半し,地巻丹に宜く山にヒ材あり」とある。同10年清水寺を仮校舎として城ケ沢小学校が開校,同16年金神神社を仮校舎として同校角違分校を設置。明治12年の「共武政表」によれば,戸数85・人口519(男251・女268),牛49,馬122,船1,物産は粟・大豆・蕎麦・百合・干鱈・煎海鼠・干海扇・杉材・薪・炭。同22年大湊村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251210
最終更新日:2009-03-01




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