代官町(近世〜近代)
江戸期〜現在の町名明治初年〜明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下町の1町武家地城下の南東端に位置する南は土手町から北は和徳町まで南北に広がり,西は上瓦ケ町・北瓦ケ町・緑町・植田町に接する寛文13年の弘前中惣屋敷絵図では不完全ながら現町域が和徳派町として屋敷割りされ,46軒の屋敷があるがすべて町屋であるまた町の南側にはのちに万能寺となる行人光海の屋敷がある延宝5年の弘前惣御絵図では代官丁と見え,屋敷は武家・町家入混りで94軒(うち空家13)があり,南側に万能寺がある当町に代官が集中して居住したわけではなく,町名の由来は不明元禄年間の郭内武家屋敷の郭外移転により,同12年には馬廻衆が当町へ屋敷を与えられた(国日記)同13年の弘前侍町屋敷割では屋敷95軒のうち,武士60・町屋6・空家29となっており,町域のうち北瓦ケ町から南は上代官町となっている宝永年間には三の丸武家屋敷の郭外移転で,当町へ郡奉行支配や普請方支配などの下級藩士が移転した(同前)宝暦10年に万能寺は新寺町大行院跡へ移転した(永禄日記)明和元年の藩律では武家屋敷97軒があった明治初年の「国誌」によれば,戸数104,町域は「上は土手町より下は和徳町に至るまで長七丁五間五尺,巾四間三尺」とある明治22年弘前市に所属明治27年奥羽北線の開通にともなって,東方約500mに弘前駅(現表町)が設置されると,当町は駅に通ずる町として発展した同31年に,隣接地が遊郭地として指定されたことに対する反対運動の結果,和徳尋常小学校が和徳町から当町北端近くの南側に移転してきた当町は旧国道7号の一部を成し,商店が軒を並べ,特に昭和51年駅通りに大型スーパーが開店すると,市の商業の一中心が駅前へ移行し,土手町と駅通りを結ぶ当町に各種商店や事務所が進出した昭和3年の賦課戸数129世帯数・人口は,同25年203・1,008,同50年133・477,同55年98・362
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251328
最終更新日:2009-03-01