ケータイ辞書JLogosロゴ 田代村(近世)


青森県>階上町

 江戸期〜明治22年の村名。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属す。元和4年の八戸内儀宛南部利直知行宛行状(遠野南部文書)によれば「田代廻」として283石余とあり,盛岡藩領下では根城南部氏の給地であった。村高は,「正保郷村帳」37石余(田2石余・畑34石余),「貞享高辻帳」37石余,「元禄10年高帳」92石余(田14石余・畑77石余),「天保郷帳」105石余,「旧高旧領」81石余。延宝6年には打直し検地が実施された(八戸藩日記)。松館川沿岸の低地には水田が開かれていたとみられるが,畑作地が多かった。集落は久慈街道沿いに位置し,北の城下と南の大野村(岩手県九戸郡)を結ぶ中間地にあたっていた。また東は鳥屋部・赤保内に,西は島守に通じ,交通の中継地であった。寛文12年には切支丹禁制・捨馬禁止・忠孝奨励など6枚の制札場が設けられ(八戸藩史料),安永7年には鍬鋤類鉄荷改所,天明2年には肴荷改所が置かれて抜荷の監視にあたっていた(八戸藩勘定所日記)。地内の番屋には久慈街道の伝馬継所が開設されていた。宝永6年の「御高札文集」(晴山家文書/九戸地方史)によると,城下からの里程は3里18町・駄賃105文であった。伝馬高は100石で,久慈街道のほかの伝馬継所の大野村75石,夏井村50石に比べて最も高かった(八戸藩勘定所日記)。寛延2年猪の獣害による飢饉の被害が大きく,従来の馬60〜70疋の準備はできかねるとして,向後6〜7年間の伝馬高の減高を願い出ている(同前)。これによって100石のうち50石が島守村へ一時差し替えられた。伝馬高は免高であったので,継立不能の場合には権益として他村へ譲渡されることもあった。晴山沢村登切(平内)で継ぎ立てていた,当村の伝馬高50石は,寛延2年の凶作を経て,翌3年より島守村へ移され,宝暦元年には種市村,同10年には島守村,同11年からはもとの晴山沢村へつぎつぎと譲渡されている(八戸藩勘定所諸願留)。いずれの村でも渡世ができかねるとして免高の伝馬高の譲渡しを藩に願い出ている。安永8年には九戸郡で鉄山の経営が活発になると,人馬の往来が繁多となり,伝馬高20石の増石が認められた。寛延2年の飢饉では,当村も含めて階上岳山麓付近の山根通の被害が大きく,「天明卯辰簗」(県叢書7)に「延享三寅年より猪多く国中に充ち,田畑を荒す事大形ならず,寛延二巳年に至て多く相成る。浜裏通,下山根,田代辺,角の浜,鳥谷部近郷甚困窮に及ぶもの,十月頃より非人共多く市中へ出る」とみえている。寛延2年6月の田代通の不仕付高は,田287束刈,畑形122役となっている(八戸藩勘定所日記)。天明の飢饉では当村の被害は甚大で,寛政2年に当村を通行した高山彦九郎の「北行日記」に「田代村元家百二十軒今は三十二軒,往還には三軒のみ,是れも元は七軒有りしとぞ。飢年に餓死道路にたおれて八ノ戸迄馬の往来も止み八ノ戸にて穴を四つ掘りて投込みけるに余りて堤の内へ水葬したる多うし」とある。寛永3年当村に糀屋がなく,雪中の節は村方が迷惑するため,村で新規に糀屋を開きたいと藩に願い出て許されている。上田代から下田代へ行く坂道を堤坂といい,近傍の堤(溜池)にはメドツ(河童)がいて,いろいろなわるさをしたとの話が伝えられている(階上村誌)。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の戸数は本村16・番屋9・妙川3・土寄1,産物は熾炭(国誌)。同12年の「共武政表」によれば,戸数23・人口157(男80・女77),牛6,馬51,産物は麦・雑穀・木材・薪・炭。同22年階上村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251423
最終更新日:2009-03-01




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