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- 玉川村(近世)とは
「玉川村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治14年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
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![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治10年の村名因幡【いなば】国気多【けた】郡のうち玉河村とも書く浜村川上流域,勝見谷の最奥部で谷と河内川の交わる点に位置する地名の由来は,茶を好んだ唐の詩人盧同が玉川子と称したことにちなみ,この地に茶を多く植えさせた亀井氏が命名したと伝えられる(稲葉民談記)鳥取藩領村高は,拝領高28石余,「元禄郷村帳」81石余,「天保郷帳」76石余(うち新田高47石余),「元治郷村帳」83石余,「旧高旧領」87石余元禄の本免は4.6,「元治郷村帳」の物成は34石余戸数は,「因幡志」3,「文久3年組合帳」3「因幡志」によると,以前は玉川と流砂川(河内川)の中州にあったといわれ,鹿野村へは6~7町,氏神は寺内村にある勝宿大明神,産物は茶明治4年鳥取県,同9年島根県に所属同10年今市村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 玉川村(近世) 江戸期~明治初年の村名加茂郡のうち佐渡ケ島中央東部幕府領村高は,元禄7年検地帳62石余,「天保郷帳」63石余元禄7年検地帳では田4町余・56石余,畑9町余・6石余享保18年畑作指出帳では茶畑10歩,延享4年諸銀納目録では山役・烏賊役・械役・煙草役・船歩銀・糀室役が見えるまた製炭も行われた明和元年明細帳では,農間稼は男の柴木伐出し,塩焼き,莚・茣蓙織り,女の裂織り・麻織り文化2年宗門人別帳では,家数16・人数132,牛33(玉川組文書)「巡村記」では,天保12年の家数16・人数132,高63石余,田4町余・畑1町余,取米27石余,堂社は阿弥陀堂・諏訪大明神明治初年中玉川村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」