ケータイ辞書JLogosロゴ 津軽坂村(近世)


青森県>青森市

江戸期の村名津軽郡田舎庄のうち梵珠山地の南部に位置し,北東流する新城川(大川)の上流域にあたる西方に梵珠山がそびえる南西部には外ケ浜地方と津軽平野を分ける大釈迦峠がある地名の由来は,外ケ浜と津軽平野を結ぶ津軽の代表的な坂道であることによるものと思われる弘前藩領村高は,「正保高帳」55石余,「寛文高辻帳」120石,「貞享4年検地水帳」213石余(田150石余・畑屋敷62石余),「寛保高辻帳」120石,「天保郷帳」242石余(うち弘前本では寛政7年改出新田84石余・文化5年改出新田38石余)弘前藩2代藩主津軽信枚の代(慶長12年〜寛永8年)に藩営の5牧が設置され,当村域には津軽坂牧が開設された(津軽歴代記類)封内事実秘苑によれば,寛永15年に津軽坂牧が開設され,南部(盛岡藩)から牧司を招聘したという(青森市史)この頃の牧の規模は,「東西二里二十丁,南北三里,御馬立場所三ケ所は古牧野・新牧野・岩瀬野,母駄十五駄,父馬一疋」という(東津軽郡誌)同牧からは元禄3年将軍家へ,享保6年近衛家へと良馬の献上も多かった元禄9年の同牧牧頭は倉内小左衛門であったはじめ藩牧では年中放牧していたが,宝永3年以降半年は牧場所属の村民に養わせたという(青森市史)のち藩営5牧は天明の大凶作で一時廃絶し,寛政7年に再興されたが,天保3年には当牧以外の4牧が閉鎖され,当牧も同10年に廃止された「貞享4年検地水帳」によれば,当村の小字に「田川・早稲田・山本・川合」があり,反別は田21町6反余・畑屋敷28町5反余(うち屋敷地9反余),このほかに開発可能地(田畑)5町3反余,漆木11本,雑木山6か所,柴山2か所,草山14か所,河原地5か所・1反余,柳原3か所・9畝余,永荒地(田畑)5町6反余,牧2か所・5畝余,観音堂地が見えるまた,田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた元禄3年には油川組に属し,村位は下(平山日記)宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある当村は稲作・畑作のほか,林業も盛んな農山村であるまた,当村は羽州街道沿いの村である神社は,馬頭観音を祀る惣染宮があった同社は寛永15年3代藩主津軽信義が牧場にちなんで創建し,信義直筆の絵馬を社宝としたと伝わる(安政2年神社書上帳・青森市史・国誌)のち,神仏混淆神社書上帳(八木橋文庫蔵)によれば,明治初年の神仏分離に際し,保食神社に改めたという文化14年12月24日,9代藩主津軽寧親の命によって,津軽野村(現弘前市内)が津賀野村と改称するのに併せて,津軽坂が鶴賀坂と改められた(国日記)これは,村名・牧名をもふくめた改称と思われるが,「天保郷帳」のように,その後も津軽坂村と称することもあったなお,鶴賀坂村の名は,のち鶴ケ坂村と書くようになる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251550
最終更新日:2009-03-01




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