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「鉄砲町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

鉄砲町(近世~近代)


江戸期~現在の町名明治初年~明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町町人地城郭の東に位置する百石町と元寺町を東西に結ぶ道筋の町北に上鞘師町,南に一番町が並行...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7251610]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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鉄砲町(近世~近代)

江戸期~昭和49年の町名江戸期は宇都宮城下町の1町(宇都宮市史)もとは杉原町の一部(宇都宮町名起源考)天文年間に鉄砲が伝来してから鉄砲鍛冶をこの地に住まわせたのが町名の由来といわれる江戸初期から地子免許元文年間町方書上帳によれば,名主弥右衛門・太兵衛,町並みは南北長さ57間2尺・道幅4間,町家は西側10軒・東側14軒,うち本家16軒・小割家28軒,木戸1か所・番所1か所,ほかに会所坊寺院として天台宗称名院があり,町高は37石余(県史近世1)明和8年町方書上帳には,会所をふくめ家数34軒,この坪数456坪余と見えるまた,二荒山(宇都宮)大明神前馬場の南口にあった駒止めが,正徳年間頃,付近の町人の願いにより鉄砲町と馬場町の境に移されたことが記される(宇都宮市史)寛政年間の諸職人諸商人留によれば,塗物師2・米屋2・絵師1・研屋1・鋳物師1・菓子屋1・表具屋1・紺屋1が見える(同前)また,寛政8年宇都宮宿役馬町割覚によれば,池上町組に属し,馬1疋を負担する(県史近世2)「旧高旧領」では町高3斗余と見える明治22年宇都宮町,同29年からは宇都宮市の町名大正14年の世帯29・人口177明治以来市街地のほぼ中心部に位置し,中央繁華街の一画としてにぎわいをみせている町内には明治天皇が東北巡幸の際に滞在した,行在所向明館跡が史跡としてある昭和49年馬場通り1~2丁目・曲師【まげし】町となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は仙台城下町の1つ明治11年宮城県仙台区に所属同22年からは仙台市の町名仙台城下の東部,二十人町の北裏にあり,東は榴ケ岡【つつじがおか】北麓に至り,宮城郡南目【みなみのめ】村の原町駅に通じていた町名は鉄砲足軽組が置かれたことによる正保の絵図では元寺小路の東末に続いて,足軽屋敷が一部分割り出されているのみであるが,寛文年間のものになると,南裏の二十人町とともに,完成した姿で描き出されてくる二十人町との間には西方から於多福横町・和光明神横町・鉄砲町三丁目横町の3本の横町が通り,後者は釈迦堂門前へ通じていたこの絵図には鉄砲町東末に牛小屋と記されている延宝年間の絵図には米蔵と材木蔵が並んで記されているなお,「伊達世臣家譜」によると鉄砲町足軽総勢は138人であった当地に鎮座する和光明神は,元和2年,大坂の役の後に鉄砲組足軽によって勧請された社於多福横町は夜ごとお多福が現れて人々を困らせたという伝説から名がつき,桃太郎横丁とも称された明治になると東方の原町・岩切・塩竈方面への通路,榴ケ岡につくられた歩兵連隊との取引により商店街に変化個人商店の多い町並みであった最近ではアパートなどの進出が目立っている昭和46年一部が小田原2丁目となり,残余は住居表示未実施のまま現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名久保田鉄砲町・秋田鉄砲町ともいった江戸期は出羽国秋田郡のうち秋田藩領久保田城下町の1つ慶安4年に町割がなされたといわれる(政景日記)元和5年にこの町居住の弥右衛門が鉄砲20丁鋳造のための借銀を藩からしていることから,鉄砲鍛冶がいたと考えられる(政景日記)位置は久保田外町の南西部にあたり,寺町と十人衆町の間,下肴【しもさかな】町の南である保戸野鉄砲町と区別するため町鉄砲町ともいう当町は果物の家督専業権をもっていた天明4年に鉄砲町に与えられた証文に,アンズ・リンゴ・ナシ・クリ・串柿・青梅の6品について河辺【かわべ】郡・仙北【せんぼく】郡・平鹿【ひらか】郡・雄勝【おがち】郡の村々より川下げした果物を永久家督として認める旨が見える(市史)その代償として誓願寺橋と土手の普請を請け負わされている町の規模は寛文3年に間数21.5間・家数34とある(外町屋敷間数絵図)明治に入って,成立は不明だが明治13年の第3回勧業博覧会に出品しているので,その頃から仁恵学校があった(校主飽田仁恵)明治4年から秋田町の町名同11年南秋田郡に所属同22年秋田市の町名となる明治18年の戸数は85とあるが(秋田町字分戸数調),翌年の俵屋火事によって全焼した昭和40年住居表示実施により大町6丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は名古屋城下の1町町人町の1つ鉄炮町とも書いた本町筋にあり碁盤割の南端に位置する蒲焼町筋から広小路を挟み入江町筋までの間の2丁南は玉屋町に隣接する慶長年間清須越の町であるが,清須での町名や名古屋への移転年などは不詳はじめ清須から数名の鉄砲師が移り住み鉄砲町の町名が付いたそののち鉄砲師は御園町大下へ移り,跡地に町屋が形成された享保年間の家数63軒半,町役銀536匁(名府予録)住民に御秤所守随徳治郎,塩硝御用達駒屋文助,酒造井筒屋宗兵衛,鉄物御用達商人笹屋岡谷惣助,諸病売薬所三芳屋半右衛門などがいた当町の西側,広小路筋と天外町(蒲焼町筋)との間の小路は旅籠屋町と称され,遊女も置かれていたが,明暦年間(承応3年ともいう)禁止となった(名古屋府城志)町内,広小路沿いに牢屋敷があったまた,柳薬師新福院・修験良宝院(庚申堂)・浄土真宗本願寺派長円寺の3寺院があった(金鱗九十九之塵)氏神は末広町若宮八幡(名古屋府城志)明治4年中須賀町・大久保見町を合併同時に広小路以北が玉屋町の一部となる明治11年名古屋区,同22年名古屋市,同41年同市中区,昭和19年同市栄区,同20年からは再び同市中区に所属昭和38年白川町の一部を編入同41年栄1~3丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は広島城下の武家屋敷地鉄炮町とも書いた広島城の東,外濠と京橋川の間東白島町から南方の胡【えびす】町に至る竪筋の町で,東と西には同じく武家屋敷地の流川町・八丁堀が並行する町名の由来は,家中鉄砲方の者が住んだことによると思われるが,「知新集」には「此ところ御家中町の筋なれハ,もと鉄炮の打場なりしゆゑかく唱ふるか」とある元和5年の城下絵図では町間数520間広島藩御覚書帖では侍屋敷38・2万2,800坪余,御歩行以下拝領家1・180坪余(県史近世資料編)また寛永年間城下絵図では御かごの衆・御小道具の衆の屋敷も見える真宗超覚寺は浅野氏入国に従い紀伊国から当地に移転(知新集)明治11年広島区,同22年広島市の町名となる大正6年の戸数544・人口1,970,昭和26年の世帯数423・人口1,524同27年八丁堀筋にあった広島電鉄の市内電車白島線は鉄砲町筋につけかえられ,道幅も拡張されて八丁堀から白島方面への幹線道路となった同40年一部が上幟町・八丁堀・上八丁堀・胡【えびす】町となり,上流川町の一部を編入同55年中区の町名となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名明治17~22年は富山を冠称富山城下松川の右岸近くに位置した町名の由来は,富山藩の鉄砲組の屋敷があったことによる(富山市の町名の由来)安永2年の町名書上には散地分としてその名が見え,同8年には1~2丁目があり,家数52,うち本家31・貸家21(町方旧記抜書/県史近世下)天保12年には1~3丁目があり,本家貸家竈数42・人口126,うち男64・女62(富山町方旧事調理/県史近世下)明治9年石川県,同16年富山県に所属同22年富山市鉄砲町となる「富山市史」には神通【じんづう】川出水の記録が多いがそのたびごとに当町はじめ付近一帯は,浸水の被害を受けてきたしかし明治35年から昭和10年にかけて神通川改修工事が行われた結果,出水による災害はなくなったなお神通川に近かったので,マス・サケ・アユ漁に従事する者が多かった明治42年の戸数126・人口507,うち男259・女248(富山市統計書)昭和20年8月戦災,同40年鉄砲町は現行の安野屋【やすのや】町2丁目・鹿島町1~2丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,武家地明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名万治年間前後までは林田【はいだ】町から中之町の土手筋に東鉄砲町があったので西鉄砲町と称していたなお,東鉄砲町は元文元年中之町に編入された津山城の南西に位置する東は藺田川を隔てて南新座,西は茅町(明治5年以後は新茅町),北は西寺町に接する町名の由来は,「津山誌」によれば,森氏が鉄砲組の足軽を当地に置いたことによるという大砲場があった町東方の三枚橋の西で,南方の大谷村石山に向かって砲術練習の射撃をした直線で5町あったことから五丁場と呼んだという当地には鉄砲製造の技術者すなわち鉄砲師がいて修理から製造まで行ったほかに鉄砲金具師・鉄砲台師もいた紙漉屋があり,備中の漉工を雇い,松平家の檀紙奉書を生産した七五三稲荷と繁守稲荷がある明治初期の戸数202・人口686(津山誌)世帯数・人口は,昭和45年279・887,同55年273・760...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~現在の通称町名化政期頃の所口【ところのくち】地図(金沢市立図書館蔵)に所口町奉行配下の所口町付足軽の居住区があり,所口町の南側町続きで鹿島郡藤橋【ふじはし】村のうち東西に通じる通りで藤橋村の馬出【まだし】と丁字に交わる通りの南側に一部所口村領が,北側の一部に町方の味噌屋【みそや】町が入り込んでいた江戸末期,海防の必要から足軽も鉄砲稽古を行ったから,この界隈を鉄砲町と称したと思われる明治22年七尾町大字藤橋のうちとなった通りの南側東端に曹洞宗宝塔寺があり,薬師如来を本尊とするので薬師さんと呼ばれた寛政,享和の頃,同寺に時鐘が設けられ,時鐘料として米1石8斗,銀子200匁が交付されていた弘化の頃からは時計も渡され町一円に時を告げていた...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は飛騨国大野郡灘【なだ】郷一之町【いちのまち】村のうち江名子【えなこ】川左岸に位置する金森氏時代侍屋敷だったが,鉄砲組あるいは鉄砲鍛冶が居住していたともいう元禄5年の金森氏国替えのあと百姓や町人の町となって発展した延享3年の家数23(国中案内)明治8年高山町空町の一部となり,昭和11年からは高山市空町の一部昭和17年寺内【じない】町・欠之上【かけのうえ】町の各一部と合併して,現町域を確定...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~昭和7年の町名江戸初期までは千代田村といったらしい町名は幕府の御用鉄砲師胝【あかがり】宗八郎がこの地を拝領し屋敷を設けたのにちなむ子孫は町名主を世襲した明治元年東京府に所属同5年の戸数178・人口638(府志料)同11年日本橋区に所属昭和7年本町【ほんちよう】3~4丁目に編入現行の日本橋本町3~4丁目のうち...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鉄砲町(近世~近代)
江戸期~現在の町名鉄炮町とも書く蒲生【がもう】郡八幡【はちまん】町66か町のうち(郡町村区別簿)町名は天正13年八幡町開設当時,鉄砲鍛冶が居住したことによる(八幡町史)明治5年滋賀県に所属同22年の町制施行後も引き継がれ,同29年現行の近江八幡市鉄砲町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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