ケータイ辞書JLogosロゴ 中別所村(近世)


青森県>弘前市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」393石余(うち田方358石余),「寛文高辻帳」393石余,「貞享4年検地水帳」404石余(田308石余・畑屋敷96石余),「寛保高辻帳」393石余,「天保郷帳」470石余,「旧高旧領」530石余。「慶安2年道筋帳」には,脇道として三世寺【さんぜじ】村より八幡村へ至る道筋があり,高杉村から中別所村まで半里,中別所村から八幡村まで27町と見える。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「平山・葛野」があり,反別は田37町2反余・畑屋敷27町1反余(うち屋敷7反余)の計64町4反余,このうち田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。ほかに開発場として田畑地が11町3反余あり,漆木は1,451本と多い。また古館が1か所記されているが,どの館をさすかは不明。元禄3年には高杉組に属し,村位は中(平山日記)。村内の寺社は,「貞享4年検地水帳」によれば,村中抱えの雷電車があるが,これは現在地内電にある雷電宮を指し,祭神は別雷神,「弘藩明治一統志」によれば,天正年間に福嶋城主七戸生計が藩祖津軽為信の招きに応じ当地へ来た際,開墾の為に旧地で崇敬した雷神に誓願して水を得たため,この時以降祀るようになったとあり,村人が小湊の雷神を分霊して一宇を創立し産土神としたという。明治初期は加茂神社と呼ばれており,一時宮館村の稲荷神社に遷座しているが,明治6年村社に列した。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年中津軽郡に属す。明治初年の戸数59(国誌)。同12年の「共武政表」によれば,戸数63・人口407(男212・女195),馬76,物産は米・大豆・粟・蕎麦・麻。同22年船沢村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251841
最終更新日:2009-03-01




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