ケータイ辞書JLogosロゴ 鍋田村(近世)


青森県>今別町

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。当村の成立時期は不詳であるが,文化6年の御郡在開発田方調帳(国立史料館蔵)に当村名が見え,享和3年〜文化2年の間に6反余の荒田が復興されたとあり,これ以前に当村が成立していたことがわかる。また,明治初年の「国誌」には「この村何の頃にか廃し,田畑山林みな今別・一本木両村の他に隷せしか,天保中大川平村の者荒田を墾開し家居八戸を結ひ,旧に復して全然たる格邑となりしかとも,数十年間今別・一本木両村の支配地たりしにより,其の墾開せし地のみを本村に属し,其の余は三村入逢となり各専に有することを得す,依て当村の彊界甚狭窄なり」とあり,当村は天保年間に復興したが,今別・一本木両村の支配を受けていたことがわかる。村高は,「天保郷帳」には見えず,「旧高旧領」21石余。明治2年の諸組村寄帳(弘前図書館郷土資料目録7)には後方組に村名が見えるが,廃印がついている。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数8,村況は「田多畑少し,農隙炭を焚薪を采る〈謂る流木にして山渓を流し下し末は今別川に出す〉……西は今別村大川を界とし,東は今別一本木と入逢の地にして山外は平館村に界ふ」という(国誌)。また,丸屋形森山は「本村(一本木村)の東二里十八丁にあり,高五十間はかり,平館村と峯を界ひ,大川平・鍋田・今別入逢の山なり,此の山元は全く鍋田村の域なりしか何の頃にか鍋田村廃し,今別・一本木の両村にてこの辺平館村の界まて沙汰せしか,天保の末年大川平村の者廃鍋田村の地面を開発し家居を構ひ一村に復せしより此の辺の山々四村入逢となれりと云り」と見える(同前)。明治10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,戸数8・人口63(男30・女33),税地は田5町9反余・畑9反余・宅地1町6反余・秣場5町4反余・稲干場2畝余など計14町余,馬13(牡2・牝11),物産は米,雑穀,村況は「平野南北ニ開キ,関口川其中央ヲ貫通シ,頗ル潅漑ノ利アルト雖モ,該地ハ山腰丘陵ノ間ニ僻在シ,民業悉ク其宜キヲ得ス」とある。同22年今別村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251870
最終更新日:2009-03-01




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