ケータイ辞書JLogosロゴ 乳井村(近世)


青森県>弘前市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡平賀庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」750石余(うち田方697石余),「寛文高辻帳」750石余,「貞享4年検地水帳」890石余(田826石余・畑屋敷64石余),「寛保高辻帳」750石余,「天保郷帳」947石余,「旧高旧領」953石余。「慶安2年道筋帳」には東根小道として大鰐剣ケ鼻大道より黒石を経て浪岡村へ至る道筋があり,「大鰐剣ケ鼻大道より乳井村迄壱里,乳井より大光寺村迄壱里」とある。集落はこの東根小道(乳井通)に沿って発達した。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「長橋・岡もと・石田・平山・沢田・熊沢」があり,反別は田79町6反余・畑屋敷19町2反余,このうち田は上々田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。ほかに鷹待場としての留山4か所,古館1か所があり,漆木は6,817本と多い。なお,古館は現在地内にある古館跡・茶臼館跡のどちらを指すかは不明。元禄3年には大鰐組に属し,村位は上(平山日記)。村内の寺社としては,「貞享4年検地水帳」によれば「1石8升9合 山伏大福院」と見え,また同院抱えの毘沙門堂と戸隠明神があった。このうち毘沙門堂は現在字外ノ沢にある乳井神社を指し,「国誌」によれば,祭神は武甕槌命・経津主命・天手力雄命,由来については延暦年間坂上田村麻呂の蝦夷平定に際して,南蔵坊が毘沙門天を字古堂の地に勧請したことに始まるといわれる。承応3年毘沙門堂の堂宇は3代藩主津軽信義により再興され,明暦元年には供料4石を給された。また天明5年毘沙門堂に立ち寄った菅江真澄は,「外が浜風」の中で「左の山へ登れば白泉あり,此水呑て甘し。毘沙門堂,少しのぼれば天狗平といふ処あり,鈴石,石弩,てんぐの斧云々」と記している。毘沙門堂は明治初年の神仏分離に際して乳井神社と改められ,同6年郷社に列した(弘藩明治一統志)。なお,「国誌」によれば,明治6年当時,同社の相殿として末社の戸隠神のほか,八幡館村の八幡宮と森山村の鹿島神が合祀されている。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年南津軽郡に属す。明治初年の「国誌」によれば,戸数76,村況については「専ら耕耘を務め余隙縄を綟ひ又砥石を采て生産とす」と記されている。同12年の「共武政表」によれば,戸数79・人口507(男265・女242),馬57,物産は米・糯米・大豆・蕎麦。同22年石川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251942
最終更新日:2009-03-01




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