ケータイ辞書JLogosロゴ 入内村(近世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「貞享郷村帳」では貞享4年以降の新田と見え66石余,「貞享4年検地水帳」24石余(田14石余・畑4石余・屋敷地6石余),「天保郷帳」28石余,「旧高旧領」40石余。弘前藩2代藩主津軽信枚の代(慶長12年〜寛永8年)に,藩営の5牧の1つとして入内牧が置かれた(津軽歴代記類)。入内牧には元禄9年,牧頭間山兵介ほか牧夫19人が配置された(弘前市史)。なお,藩営牧は,のち天保3年に津軽坂牧を除いて廃止となる(津軽歴代記類)。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「駒田・牧野」があり,反別は田1町7反余・畑屋敷1町7反余(うち屋敷地7反余),このほかに見取場(畑)14町3反余,開発可能地(田畑)1町4反余,漆木13本,池床4畝余,草山25か所,柴山2か所,雑木山3か所,河原地1か所,永荒地(田畑)7町1反余,牧3か所・5畝余が見える。また,田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。元禄3年には浦町組に属し,村位は下(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある。当村はわずかな水田・畑地を耕作し,薪炭生産などを生業とする山村である。集落北方の駒田に,津軽三十三観音第24番札所である入内観音堂があり,多くの巡拝者を集めた。小金山神社社記によれば,坂上田村麻呂が白山権現を祀り,天慶年間に平将門の孫の信田小太郎が再興して観音堂をも建立したという(国誌)。慶長5年に弘前藩祖津軽為信が入内山華福寺として再建し,寺禄130石を与えたが荒廃し,寛永18年住民が観音堂を再建したという(新編津軽三十三霊場)。また,貞享3年に浦町組・油川組・後潟組・横内組で再建し,4か組の鎮守となったという(青森市史)。なお,「貞享4年検地水帳」では当村に観音堂が見えないが,隣村小館村に観音堂地が記され,これが入内観音堂と思われる。享和3年寺社領分限帳では,当村に正観音堂が見え,末社として白山宮・薬師堂が記され,このほか当村の神社として天神宮・熊野宮が見えている。同観音堂については,菅江真澄が「すみかの山」の中で,「乳内(入内)にいたりて,かの円仁の作らせ給ふ観世音の堂にまうでぬ,四百とせのむかしは,しら山のみやしろといひて,山に八十一隣(菊理)姫を斎ひまつりし処ながら,いまは此神を地主として,観世音菩薩はそのころ,槻樹館のあるじ隅田の小太郎といふ人,堂を建てをさめられしとなん,こゝを,こがね山の神の社にてもあらんかと,かねて,ひがおもひしたれど,あだことなればかいもらしぬ」と記している。のち明治初年の神仏分離に際して,入内観音堂は小金山神社と改められ,入内観音は境内左手に移された。旧郷社。現黄金山神社。このほか,同じ地内駒田に草創期不詳の石神神社があり,明治初年に廃社となるが,神水を汲む者が絶えず,のち明治38年に再建された(青森市史)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数15,うち支村一ノ沢2,村況は「山谷の間に住す,前後山嶂屏立し,田少く畑は山間にあれとも地磽确多くして秋獲少く,炭薪を以て産を資く」という(国誌)。また,支村一ノ沢は「本村西北の方十丁五十間にあり……嘉永中に開く処なり」という(同前)。明治22年高田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7251945
最終更新日:2009-03-01




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