ケータイ辞書JLogosロゴ 左堰村(近世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「貞享郷村帳」では寛文4年以降の新田と見え1,408石余,「貞享4年検地水帳」497石余(田485石余・畑屋敷11石余),「寛保高辻帳」1,408石余,「天保郷帳」1,208石,「旧高旧領」603石余。当村は浜通(松前街道)沿いに位置し,いわゆる外ケ浜上磯通にふくまれる。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「大科【おおしな】・野田」があり,反別は田78町・畑屋敷3町7反余(うち郷蔵屋敷をふくめて屋敷地7反余),このほかに開発可能地(田畑)22町8反余,池床5か所・1町1反余,漆木367本,芝野2か所・5反余,萢地2反余,浜地6反余,古川5畝余,空地1町1反余,永荒地(田畑)1町9反余,稲荷社地が見える。田は上田から下々田まで設定されていたが,畑は下畑と下々畑のみであった。元禄3年には後潟組に属し,村位は下(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある。当村は水田耕作・沿岸漁業を主とする村である。享和2年の伊能忠敬「測量日記」によれば,家数45軒とある。また,嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には,「此辺にては海至て温にして鰯も多き由,又田地も甚多し」と見える。神社は,稲荷宮がある(安政2年神社書上帳)。なお同社は,のち明治初年の一時期,小橋村稲荷神社に合祀される(国誌)。寺院は,集落南側に油川村浄満寺末庵の浄土宗誓竜庵がある。同庵は宝暦2年一心という僧の開庵という(国誌・青森寺院志)。のち昭和25年寺格をえて誓竜山心光寺となる(青森市史)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。「国誌」では左関村と見え,明治初年の戸数48,村況は「土地中,畑少し,商工あり,小店あり」という。明治12年の「共武政表」によれば,戸数67・人口395(男204・女191),馬54,物産は米・鱈・鯖・桧。同22年後潟村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252144
最終更新日:2009-03-01




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