ケータイ辞書JLogosロゴ 弘前城下(近世)


青森県>弘前市

 江戸期の城下町名。津軽郡のうち。弘前藩の城下町。津軽統一の事業を完成した初代藩主津軽為信は,はじめ大浦城,続いて堀越城を拠点としていたが,慶長8年新たな領国の政治・経済の中心地として高岡の地を選定し,築城を計画した。高岡は西に岩木川,東に土淵川を配する高台の地で,この地の選定は軍学者沼田面松斎の意見によると伝える。その後城郭の建設が本格的に着手されたのは2代藩主信枚の慶長15年からで,翌16年に一応完成され,1月に町方,5月に藩主信枚が当城下に移っている。なお,当地の名称は,当初「二ツ石」「鷹ケ岡」と称したという説もあるが(津軽一統志),慶長8年に為信が「高岡町屋派立」と命じており(津軽編覧日記),のち寛永3年に2代信枚も藩の外港青森の建設に当たって「町人之義者高岡之町並タルベキ事」(工藤家記/県史)と令していることから,弘前の古称は高岡であったと考えられる。ただし「高岳」という文字をあてた例もあり(信牧君一代之自記),また元和6年に蝦夷地へ渡ったポルトガル人宣教師カルワリオは,当地を「タカヴォカ」と記している(北方探検記)。高岡は寛永5年8月20日弘前と改称されたという(信牧君一代之自記・津軽歴代記類)。寛永末年頃の津軽弘前城之絵図によれば,城下は城郭を中心として城東・城北・城南・城西の4地域に分けられ,このうち城西地区は掘替え工事が行われるまでは岩木川により他地域と区切られていた。正保3年の津軽弘前城之絵図では,城北は足軽町・歩者【かちのもの】町・小人町・禰宜町および町屋に町割りされ,ほかに八幡宮・伊勢太神宮(のち神明宮)がある。城東は土淵川までが町割りされ,小人町および侍屋敷,寺院街(浄土宗5・浄土真宗6・日蓮宗3・天台宗1),町屋があり,ほかに東照宮と薬王院が見える。城南は足軽屋敷と町屋,および長勝寺を中心とする曹洞宗34の寺庵が並び,その入口に空堀と土居による長勝寺構があり,南端に南溜池がある。長勝寺構は元和元年に城郭南隣の重森山(重盛山とも)を掘崩して築造された(津軽一統志)。また南溜池は慶長18年に掘られ,長さ300間・横92間・深さ7〜8尺(津軽歴代記類)。城西は侍屋敷・鷹匠町・馬屋・町屋が町割りされ,ほかに誓願寺(浄土宗)の境内がある。また岩木川は城郭天守閣の真下を流れる一筋(樋ノ口川)と,城西地区の西端を流れる一筋(駒越川)に分かれていた。城郭内にも侍屋敷があり,「奥富士物語」によれば,三の丸に中身以上の居住する銀町・大浦町および旧宇喜多家の家臣の住む備前町,北の郭に大小身の居住する袰【ほろ】町があったという。正保年間には城下に武家屋敷537軒があった。その後居住者を詳細に記した慶安2年の弘前古御絵図によれば,城北には亀甲【かめのこう】町・御小人町・博労町・禰宜町があり,下級藩士や馬喰,神官,屋号のある商家(亀甲町)が居住し,また博労町には牢屋敷が設置されている。この城北地区の町の構成は幕末まで大きな変化はなかった。城東は,南側は寺町(本寺町)のほか銀町・上長町・下長町・侍町(のちの百石町)があり,後の土手町の地域には大坂屋・加賀屋・江戸屋などの商家,酒屋,大工など商工入り交りの町並みを形成しているが,町並みは途中までで町名もない。城東の北側は,大浦町・大浦町下町・黒石町・黒石町下町畳屋町・蔵人【くろうず】町(のちの蔵主【くらぬし】町)・蔵人町下町御小人町・座頭町(のちの長坂町)・座頭町下町御小人町・八幡町(のちの笹森町)・八幡町下町御小人町があり,三の丸東外門から東西に大坂屋などの商人が居住する横町(のちの東長町)が走る。このうち和徳堰(のちの二階堰)の北側にある下町の各町並みは,黒石町下町と大浦町下町を除いて御小人の居住地で,下級藩士と商・工入り交りの町並みを構成していた。城南は,長勝寺を中心とした寺院街と銀町・親方町・大工町(のちの元大工町)・鍛冶町(のちの本町)・侍町(のちの相良町)・銅屋町・新鍛冶町・鞘師【さやし】町・塩分【しわく】町・塩分町裏町・かち町(のちの覚仙町)・侍町(のちの在府町)・茂森町がある。また茂森町と寺院街の西側にも町並みがあるが(のち茂森新町),居住者は少ない。この地区は,鍛冶・大工・銅屋・鞘師などの職人が同一職種で職人町を形成していることが特色である。茂森町には煙草屋が多く居住し,親方町には屋号をもつ商家が多く,町年寄松井・松山両家が居住していた。城西地区は,西の郭の南に立地する馬屋町が岩木川の東にあり,郭外でありながら城の一郭を形成していた。町並みは紺屋町・本紺屋町(のちの袋町)・紺屋町(のちの新町の一部)・荒町(新町とも)・侍町(のちの五十石町)・御馬屋町・本百石町(現馬屋町)・侍町(現鷹匠町)・鷹匠町があり,寺院は誓願寺とその境内2か寺がある。荒町には若狭屋などの商家のほかに山師・金穿が多数居住している。武家屋敷の分布は,郭内の三の丸・北の郭に上流藩士,城西の五十石町や本百石町に中下級藩士,城北・城東地区の北側に小者・若党などの下級藩士,城東・城南の侍町には中級藩士が住んだ。侍屋敷の総数は565(空家60余),町屋は城下合わせて約1,000軒で,家業には木綿屋・小間物屋などの商家,鍛冶・鋳物師・銅屋・桶屋・煙草屋・煙草作り・居鯖・銀屋・鞘師・飾屋・大工・左官・酒屋・室屋・木挽・桧物屋・茶屋・紺屋・塗師・畳屋・鷹師・餌差・博労・菓子屋・石屋・山師・金穿・そば屋・そうめん屋・青物屋・座頭などのほかに料理屋・髪結・狂言師などもあった。このうち鍛冶91・銅屋21・大工39・鞘師11・紺屋129・鷹師29などが多く,居鯖51・煙草屋54・煙草作り23を数えることが注目される。城下から在方へ通じる道路は,正保3年の津軽弘前城之絵図や慶安2年の弘前古御絵図によれば,城西では駒越川(現岩木川)を越えて北へ延びる「秋田へ出ル本道」(西海岸の鰺ケ沢【あじがさわ】・深浦経由)と新町から西への「在郷道」(岳温泉に至る西根小道),城南では茂森町から西への「在郷道」(相馬・西目屋村方面)と南溜池・新寺町から南への「在郷道」(久渡寺への道),城東では土手町から南東へ向かう「秋田へ出ル本道」(碇ケ関経由)と代官町から北へ向かう「南部へ出ル本道」(青森経由)がある。城下内の道路は,交差点の多くが食い違っていて,T字路48か所がある。木戸は侍町と町屋の境に多く,49か所を数えることができる(弘前市史)。慶安2年5月3日,横町(のちの東長町)からの出火により寺町の5か寺と町屋を焼失した(平山日記)。この寺町の大火により,翌3年には寺町の寺院が南溜池の南に移転して新しく新寺町が成立し,旧寺町は本寺町(元寺町)と改められた。この大火で成立期の当城下の様相は変貌する。万治2年の津軽弘前古絵図および寛文13年の弘前中惣屋敷絵図によれば,城東では土手町南側の侍町(のち山道町),町人町(のち松森町・品川町),瓦ケ【かわらけ】町,御歩行【おかち】町(のち徒町と書く)が新たに町割りされている。本寺町と侍町(百石町)を結ぶ一番町・鉄砲町・上鞘師町・下鞘師町・元寺町小路などの現町名が確定するのは享保4年頃である(町屋数円)。城西地区では,延宝2年に樋ノ口川の水量を減じ駒越川(現岩木川)の水量を多くする掘替え工事が行われ,その後天和2年に再工事が行われて岩木川は駒越川一筋となり,樋ノ口川は城郭西側の西濠となった(津軽歴代記類)。この結果,城西地区に駒越町・西大工町・平岡町などの町割りが進んだ。なお天和2年の岩木川再工事は,前々年の延宝8年8月の水害により,郭内の西の郭・北の郭にも浸水して材木場・作事場・御鷹部屋などが被害をうけたことを端を発する。またこのとき土淵川水系の土手町大橋(現蓬莱橋)をはじめ多くの橋が流された(弘前市史)。城下の固めとしての枡形は,延宝6年の弘前町方屋敷割では取上派【とりあげはだち】町(松森町)の東端にあり,さらに享和3年の御家中町割では紺屋町足軽町の端,和徳町足軽町の端,富田町足軽町の端にも設置されている。城下の制札場は,正徳年間には大札所として本町入口・土手町橋脇・東長町入口・和徳十文字・亀甲町・紺屋町枡形の6か所,小札所として茂森新町・御蔵町(現浜の町)・駒越町・新寺町の4か所があった(弘前町方屋敷割裏書記録)。城下の町方支配は,町奉行のもとに町年寄・名主・月行事によって行われ,5人組も組織された。延宝7年の大組頭支配七組分御役人足出帳によれば,町方は親方町支配分(親方町4組・上長町2組・下長町3組・大工町1組・銅屋町1組),土手町支配分(土手町7組),横町支配分(横町4組・本寺町6組・笹森町1組),亀甲町支配分(亀甲町3組・黒石町2組),紺屋町支配分(紺屋町5組),新町支配分(新町組9組),重盛(茂森)町支配分(重盛町5組・塩分町2組・茂森派町2組)の7組に分かれ,各組の大組頭(町名主)は月行事の補佐をうけ,各小組には小組頭(月行事)がいた。正徳年間には城下に名主13人,月行事72人がおり(弘前町方屋敷割裏書記録),文化年間には名主12人・月行事44人・五人組88組であった(弘前市史)。延宝5年9月4日には親方町からの出火により親方町と塩分町を全焼し,合わせて侍屋敷10軒,町年寄2軒,町屋85軒を焼失した。元禄9〜12年および宝永2〜4年には郭内武家屋敷の郭外移転が行われ,この2度の武家屋敷移転策により城下の町並みは大きく変化した。このうち元禄年間の移転は,同8年の大飢饉による「減省」と称する家臣の大量召し放ちに端を発するもので,城下の侍町に多くの空屋敷が生じたため,郭内居住の家臣はこれらの侍町へ屋敷替えを命じられた。さらにこの移転で残った三の丸の家中屋敷も宝永2年3月に移転が命じられ,城下198軒の侍・町扶持人・町人の家屋敷も移転した。同4年に移転が本格的に行われ,蔵主町・長坂町・笹森町・若党町・厩町(馬屋町)・鷹匠町・在府町・相良【さがら】町・東長町・徒町・土器町(瓦ケ町)・代官町・百石町後川端町(現徒町川端町)・徳田町・南横町・新町後(現南袋町)などの屋敷替えが行われた。この結果土淵川以東の城東地区に新しく下級藩士を中心とする侍町ができるとともに,大浦町・白銀町が上級藩士の屋敷町となった。元禄7年5月27日には岩木山噴火による地震があり,城内で壁165坪が破損したほか,城下・領内の被害が甚大で幕府へ「二三十年ニ無之強地震」と報告されている(国日記)。元禄8年の大飢饉やそれに続く「減省」で多数の餓死者や城下を離れる藩士が出たが,飢饉以前の城下の人口は1万5,890人で(弘前市史編纂関係史料),正徳5年の改では町屋戸数3,166軒・人口1万3,788人(男7,411・女6,377)とある(弘前町方屋敷割裏書記録)。明和元年の藩律によれば,城下の武家は1万4,600人余・商家1万6,600人余とあり,他に寺院91・庵3・社家25・修験11・祠堂28であった。延享元年5月11日の弘前大火事は,本町から出火して親方町・鉄砲町・土手町・相良町・在府町・新鍛冶町・百石町・本寺町・大工町を焼き,300軒余の家屋と蔵30余を焼失し,「平山日記」にも「弘前始り而より覚無之大火事」と見える。明和3年正月28日には江戸期最大の地震があり,城内・家中を除き分家黒石津軽家領を含めて潰役所14・潰家5,497軒・半潰家355軒・潰棚店682軒・潰土蔵198・焼失家屋250軒・焼失土蔵66・焼失寺院4・焼失堂社17・潰堤防3,583間・潰橋134か所・男女潰死1,001人・同焼死301人,その他という大被害が生じている(封内事実秘苑)。このほか水害でも元禄14年には土手町大橋,徒町・東長町の橋が流失,享保13年にも城下の橋が残らず流失という被害があり,延享元年にも城下の橋がすべて破損した。3年後の延享4年8月には駒越町で床上4〜5尺の浸水があった。なお,時代は下って寛政10年6月には樋ノ口から誓願寺裏までの岩木川堤防が決壊して新町・馬屋町・紺屋町などの下町一帯に浸水し,紺屋町・春日町辺で床上浸水4〜5尺となった。天保元年8月にも同様に「岩木川未曽有」といわれる大洪水が起こっている(駒水物語)。寛政の改革に伴って寛政4年に藩士土着令が出され,300石以上の藩士42名が在方へ移住した(平山日記)。少給藩士の土着はそれ以前からも奨励されていたが,寛政7年の御家中在宅之族村寄によれば在宅者数796人,在宅村数257か村に及び,そのため城下では多くの「御家中潰町」が生じた。しかし,藩士土着は失敗に終わり,同10年には廃止令が出て藩士は城下へ戻った。土着令の解除により同12年の分間弘前大絵図や文化4年の御家中町割では潰町とされた町はもとの侍町に復活している。寛政7年下白銀町に藩校稽古館が設置された。同館はその後城内へ移転し,その跡地には安政5年に医学館,続いて修武堂が建てられた。天保8年の御家中御目見已上人別戸数調之覚(御定法古格)によれば,藩士のうち御目見以上は男女合わせて1万1,875人,屋敷数1,211軒,御目見以下は9,129人,家屋敷308軒・藩士の町借宅241軒。また同年の町人は1万4,540人・寺堂311人・修験34人・社家117人・座頭30人で,この数は幕末まであまり変動がなく,城下の総人口は約3万6,000人であった。幕末期には定府の藩士の引揚げもあり,町端の町に新たに家中の屋敷割りが行われた。このうち文久2年には茶畑新割町・古堀新割町が町割りされ(国日記),慶応年間から明治初年にかけては富田新町・新品川町・新寺町新割町などの侍町が成立した(国誌)。城下の物産としては絵蝋燭と塗物(唐塗といい,明治になって津軽塗と称した)が有名で,塗物は「弘前塗」として,公家や幕府への献上品とされた。年中行事としては,1月の正月行事,2月の節分・初午・彼岸,3月の上巳の節句,4年の潅仏会,5月の端午の節句,6月の氷室と各寺院の宵宮,7月のねぷたと盆行事・盆踊,8月の岩木山参詣(お山参詣)・八幡宮祭礼,9月の重陽の節句,12月の恵比須講・薬師講・詰の市などがある(奥民図彙)。なかでもねぷた・盆行事・八幡宮の祭礼が最も盛んであった。ねぷたは7月1日から6日の夜まで進行された(現在は8月1日から7日まで)。盆行事は墓前の供養をし門火をたいて祖霊を招くものであるが,盆踊りについて古川古松軒は天明8年の「東遊雑記」の中で「盆中はいふに不及,十五日より廿一日までの七日の間百姓は農業を休みて踊る事案内の者物語也,定めておかしき踊成るべし」と記している。弘前の総鎮守八幡宮の祭礼は城下最大の祭で,天和2年に始まった。8月15日に神輿の渡御が行われ,これにしたがって各町内から山車が出て城下を運行した。神輿の渡御は隔年に実施されたが,飢饉の年や藩主家の凶事があった場合は中止されるか9月に延期されたという(弘前八幡宮古文書)。慶応4年8月(9月に明治と改元)の城下の戸口は,戸数8,037(うち社家24・寺77・修験8・座頭支配31),人口3万9,568(男1万9,158・女2万410)であった(弘前市史)。明治4年の廃藩置県によって弘前藩は弘前県となり,城内に弘前県庁が置かれ,その後県庁は9月27日元寺町へ移転したが,同年弘前県が青森県と改称されて県庁は青森へ移転し,弘前には県市庁が置かれた。同4年の戸籍法の改正(翌年実施の壬申戸籍)により,弘前は第20区で6小区に区分された。同6年3月大区小区制が敷かれ(同9年一部改正),弘前市街は第3大区1小区となり,元寺町に大区会所が設置された。また「国誌」によれば,町数は本丁・上白銀丁・下白銀丁・元大工町・元長町・親方町・元寺町・一番丁・鉄砲町・上鞘師町・下鞘師町・元寺町小路・東長町・百石町・百石町小路・田町・田茂木町・禰宜町・笹森町・長坂丁・蔵主丁・大浦町・亀甲町・小人丁・馬喰町・春日町・若党町・鍛冶町・新鍛冶町・北側端丁・南川端丁・銅屋町・桶屋町・新寺町・北新寺町・新寺町新割丁・茂森新丁・古堀新割丁・西茂森町・古堀丁・茂森町・在府丁・相良丁・覚仙丁・森丁・塩分町(以上上町【うわまち】),土手町・住吉丁・山道丁・紙漉町・新品川町・品川町・富田町・松森町・富田新丁・楮町・新楮町・徒町川端丁・徒町・西川岸丁・坂本丁・田代丁・山下丁・徳田丁・南柳丁・北柳丁・南横丁・萱丁・植田丁・緑町・北土器丁・南土器丁・中土器丁・上土器丁・代官丁・和徳町・茶畑丁・茶畑新割丁・北横丁(以上川東),紺屋町・浜ノ町・五十石町・袋町・鷹匠町・馬屋丁・新町・西大工町・平岡町・駒越町(以上下町【したまち】)の89町で,戸数7,330・人口3万3,984(男1万6,908・女1万7,076)であった。これらの89町は明治初年〜明治22年には弘前を冠称した。同11年大区小区制が廃止されて郡制が施行されると,弘前総町89町は中津軽郡に属し,公選戸長が町内の処理に当たった。同12年の「共武政表」によれば,戸数6,747・人口3万2,566(男1万6,160・女1万6,406),寺院63,学校19,水車2,牛3,馬38,車輌140,船3,物産は酒・味噌・酢・醤油・生糸・織物・韓塗・梅漬。同16年組合町村制が施かれ,中津軽郡には20の組合が成立し,弘前は第1組から第5組までで,89町が次の5地区に分けられた。第1組は本町・在府町・相良町・元大工町・森町・覚仙町・塩分町・上白銀町・元長町・茂森町・西茂森町・茂森新町・古堀町・古堀新割町・新寺町・北新寺町・新寺町新割町,第2組は土手町・品川町・山道町・住吉町・新品川町・鍛冶町・新鍛冶町・北側端町・桶屋町・銅屋町・南川端町・松森町・楮町・新楮町・紙漉町・富田町・富田新町,第3組は代官町・緑町・植田町・萱町・南瓦ケ町・北瓦ケ町・上瓦ケ町・中瓦ケ町・徳田町・南柳町・北柳町・坂本町・田代町・西川岸町・徒町・徒町川端町・山下町・南横町・和徳町・北横町・茶畑町・茶畑新割町,第4組は親方町・百石町・百石町小路・一番町・東長町・元寺町・鉄砲町・上鞘師町・下鞘師町・元寺町小路・下白銀町・笹森町・長坂町・蔵主町・大浦町・田町・田茂木町・禰宜町・若党町・小人町・春日町・馬喰町・亀甲町,第5組は鷹匠町・馬屋町・西大工町・新町・駒越町・平岡町・紺屋町・浜ノ町・袋町・五十石町。この間明治13年5月15日には元寺町からの出火により,本町・元大工町・元長町・親方町・鍛冶町・桶屋町など17町1,064戸を焼失,同18年10月21日には和徳町・代官町・茶畑町にかけて100戸を焼く大火があった。また同19年にはコレラ・腸チフスが流行し,同20年には天然痘の大流行により多数の死者がでた。教育の面では,藩校の伝統をうけついで明治5年に東奥義塾が開校し,小学校も同6年の一番小学の開校をはじめとして次々と開校した。同12年当時の弘前の公立学校としては,青森師範学校弘前分校(亀甲町,明治9年開校),弘前女子師範学校(元寺町,明治11年開校),中津軽郡公立中学(亀甲町,明治12年開校),朝陽小学(本町,明治6年開校),和徳小学(和徳町,明治7年開校),亀甲小学(亀甲町,明治7年開校),含英女小学(元寺町,明治7年開校),蓬莱小学(土手町,明治10年開校),博習小学(鷹匠町,明治10年開校),自疆小学(袋町,明治10年開校),敬業小学(北川端町,明治10年開校),盈進小学(百石町,明治10年開校),知類小学(松森町,明治10年開校)の13校があった。その他明治8年の弘前教会設立をはじめとするキリスト教の普及,明治5年の県農具会社の設立をはじめとする諸産業・企業の勃興や同11年の士族授産のための興業社の設立など,明治初年〜中期にかけては文明開花による新しい事業が進められていった。明治22年市制町村制の施行により弘前市となり,紙漉町は清水村に編入。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252189
最終更新日:2009-03-01




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