ケータイ辞書JLogosロゴ 福浦村(近世)


青森県>佐井村

江戸期の村名北郡のうち下北半島西端のほぼ中央部,福浦川の河口部に位置する西側は津軽海峡に面し,東部には丸山・大作山をはじめとする下北山地が広がる地名の由来は,「下北半島史」によれば「フクラ」と呼ばれ,海岸の湾曲,または山沢の湾曲した所に名付けられる地名といい,羽後飽海郡の吹浦,能登羽咋郡の福浦も同様という当村の南方,牛滝村との間に仏ケ浦(別名仏ケウタ)と呼ばれる浸食海岸が続く極楽浜とも称されたこの景勝地を訪れた菅江真澄は「奥の浦うら」の中に,「ほとけがうだという磯辺の石どもは,たかうなのならび生たるがごとく,工などのけづり出せるやうに,これらの岩の,げにや仏に似たりけん,極楽はまといふあり,いさごなどは,しら雪をしきたらんにひとしく,世にたぐひなう見どころおほき岸辺」と書き記している現在は国の名勝および天然記念物に指定されている正平年間,後村上天皇の第8皇子宗尹王が越後より西国へ赴く海上逆風にあい,福浦に漂着したという伝承がある(東北太平記/みちのく双書3)康正3年下北図(大畑町大安寺蔵)に「福浦」「佐々木美作」の記載があるが委細不明,盛岡藩領田名部【たなぶ】通に属す正保4年,元禄12年の南部領内惣絵図にはともに村名が見えないが,天和2年の惣御代官所中高村付に村名が見える村高は,「邦内郷村志」7石余(畑のみ)なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」「旧高旧領」には,当村の名は見えない田名部五ケ湊・七ケ湊として指定される程の湊は持たないが,福浦川を利用した桧材の搬出が行われた「雑書」寛文8年5月23日条に当村への松前船着岸が見える長後【ちようご】村と牛滝村に挟まれ,また峻路の山中を通行しなければならないことから,廻船問屋の定着はみられない延宝元年田名部通の検地が実施されたとされるが委細は不明(邦内貢賦記)享保6年の家数20(佐井村誌上巻)「邦内郷村志」によれば,家数6,地船1,長後・福浦・牛滝の3か村で漁船10,檜山は釜屋野沢1か所,産物として海苔をあげている菅江真澄「奥の浦うら」にも糸海苔・蔓海莓の記載があり,「縄苔ともいうべきものか」としている「本枝村付並位付」では,位付は下の中,家数5嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には,「福浦村・牛滝村より壱りといへ共凡三里半位も有べし,然共海上船にて参らバ定而弐りニも近かるべきや,惣て此辺は村より村迄の間を壱りと定めしものなるや,人家八軒,漁者にして稗を少しヅゝ作るよし,沢目に畑有て野菜物等甚よろしく出来るよし……今朝此処にて船を雇とも皆八ツ半比より蚫取に出けるまゝ,一向船もなく,故に是非共歩行にて同道人と出立しける」と当村の様子を記す寺社は正徳4年勧請の稲荷堂,佐井村長福寺末の芙蓉軒がある(邦内郷村志)なお当村は,文化元年頃から長後村の枝村となり,幕末までには同村に吸収されてしまう江戸中期には牛滝村の枝村として把握されたこともあったとされるが,不詳(佐井村誌)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252238
最終更新日:2009-03-01




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