ケータイ辞書JLogosロゴ 福岡村(近世)


青森県>五所川原市

江戸期〜明治9年の村名津軽郡田舎庄のうち梵珠山地西端,岩木川支流松野木川右岸に位置し,東方には又白山・梵珠山をはじめとする山地が広がる弘前藩領斎藤藤七によって松野木代村(のちの松野木村)の一部が開発されて成立したという(長橋村誌)貞享4年からは枝村として平田村があったが,享保11年当村から分村して独立し,同時に平田村は下新里【しもにさと】村と改称した(村名改称并新村創立調)村高は,「貞享郷村帳」では寛文4年以降の新田として見え851石余,「貞享4年検地水帳」では枝村平田村(のちの下新里村)分をのぞいて226石余(出140石余・畑屋敷86石余),「寛保高辻帳」851石余,「天保郷帳」151石余,「旧高旧領」284石余「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「松本・ほろかけ・千苅・見のすて・かけひ」があり,枝村分をのぞいて反別は田20町6反余・畑屋敷28町余,このほか枝村分をふくめて開発可能地(田畑)87町9反余,池床6か所,漆木4本,草山2か所,永荒田畑3町3反余,八幡社地・境内林(除地)などが見えるこの時の枝村平田村は,当村より先に成立していた新里村が改称したものである(長橋村誌)元禄3年には飯詰組に属し,村位は中,家数は平田村をふくめて31(平田村14),うち庄屋1・百姓15・水呑15(平山日記)同7年の諸職諸家業覚では,室師(麹師)1・質屋1が書き上げられている(同前)天明3年の大凶作では,村高851石余のうち477石余が荒地となっている(長橋村誌)神社は,承応2年の勧請という八幡宮があるなお,同社はのち明治6〜8年の間,松野木村大山祇神社へ合祀されている(同前)明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治2年の戸数18・人口94,馬15(同前)明治初年の戸数17,うち支村下松野木7,村況は「三方田圃繞り,土地下,田多し」という(国誌)下松野木は,もと松野木村のうちの大開村で,江戸後期再開発されて下松野木村と改称したものである,ただし,当村に吸収された時期については不詳同10年頃の陸奥国津軽郡村誌の松野木村の記事の中に,「福岡……別ニ大開ト称ス」とあり,福岡村はもと支村の旧称大開村を並称していたことがわかる(長橋村誌)明治9年松野木村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252239
最終更新日:2009-03-01




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