ケータイ辞書JLogosロゴ 堀越村(近世)


青森県>弘前市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡平賀庄のうち。弘前藩領。当村は慶長16年に2代藩主津軽信枚が高岡(弘前の旧名)に築城するまで,弘前藩の城下町として,神社・仏閣・商家などが立ち並び栄えた(永禄日記・津軽一統志・津軽歴代記類)。廃城後は一村落として存続し,寛永17年の津軽百助宛3代藩主津軽信義黒印知行宛行状に当村名が見える。村高は,「正保高帳」611石余(うち田方562石余),「寛文高辻帳」611石余,「貞享4年検地水帳」1,605石余(田1,399石余・畑屋敷206石余),「寛保高辻帳」611石余,「天保郷帳」1,363石余,「旧高旧領」1,476石余。「慶安2年道筋帳」によれば,弘前城下より秋田領白沢へ出る大道筋(羽州街道)に,弘前の次の宿継場として当村名があり,「弘前より堀越村迄 壱里 左右田地」と見え,また「堀越より大鰐村迄 壱里 左右田地」ともある。しかし,貞享2年にこの道筋は往来差止めとなり,新たに小栗山村を経て石川村へ抜け羽州街道へ通じる街道がつくられた。なお,「津軽歴代記類」によれば,その際に当村は千年山の下へ移転し,新村として取り立てられたとされるが,確証はない。集落は当初羽州街道に沿って発達していたが,新道が切り開かれたあとは徐々に衰退したと思われ,「津軽歴代記類」によれば,安政5年11代藩主津軽順承が領内視察を行った際,当村が廃村のようにすたれているのをみて,安政5年ほかへ譲渡した田畑を買い戻させるなどの復興策を講じたという。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「柳田・宮本・浅田・平山・岡部・よろい田・川合・下河原」があり,反別は田119町8反余・畑屋敷38町9反余(うち屋敷3町8反余)の計158町7反余,このうち田は上々田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。ほかに,開発場としての田畑地13町7反余,川原18か所10町2反余(うち8反余は薪積場),古館1か所1町4反余(堀越城跡を指すものと思われる)があり,漆木は700本。元禄3年には堀越組に属し,村位は中であったが,享保12年に村位は上に改められている(平山日記)。水利は主として平川から取水する五ケ村堰・佐右衛門堰・太次兵衛堰・柳田堰を利用し,とりわけ五ケ村堰は当村と和徳村合わせて195町8反余に恩恵を与えた(県租税誌)。村内の寺社は,「貞享4年検地水帳」によれば,山伏養蔵坊抱えの熊野社と稲荷社,村中抱えの山神社と観音堂,同じく村中抱えの権現堂地と妻神社地があった。このうち熊野社は現在字柏田(堀越城跡本丸)にある熊野宮を指し,祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。また「国誌」によれば,明治初年当時,弘前の貞昌寺末寺の浄土宗光昌庵があり,本尊は阿弥陀如来。同4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年中津軽郡に属す。明治初年の「国誌」によれば,戸数108,うち支村川合53,本村の村況は,土地は中の中で田が多く畑は少ないと見える。また支村の川合については,本村の東北部,大和沢川と平川の合流点に位置し,南の山々から川下げした材木を引き揚げ運送して駄賃を取っていたと記されており,「貞享4年検地水帳」に見える薪積場は同所にあったものと推察される。明治12年の「共武政表」によれば,戸数118・人口736,馬60,物産は米・大豆。同22年堀越村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252346
最終更新日:2009-03-01




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