ケータイ辞書JLogosロゴ 前田村(近世)


青森県>青森市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「貞享郷村帳」では寛文4年以降の新田と見え518石,「貞享4年検地水帳」336石余(田321石余・畑9石余・屋敷地5石余),「寛保高辻帳」518石,「天保郷帳」318石,「旧高旧領」381石余。当村は浜通(松前街道)沿いに位置し,いわゆる外ケ浜上磯通にふくまれる。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「中野・湯野沢」があり,反別は田43町2反余・畑屋敷3町7反余(うち屋敷地7反余),このほかに見取場(畑)1町2反余,開発可能地(田畑)11町5反余,漆木5本,草山1か所,浜地2町3反余,空地5畝余,永荒地(田畑)1町9反余,出湯場1か所が見える。また,田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。元禄3年には後潟組に属し,村位は下(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある。当村は水田耕作・沿岸漁業を主とする村である。享和2年の伊能忠敬「測量日記」によれば,家数16軒で,「奥内寄郷なり,海へ一丁又四五十間」とある。また,嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には,「此在に少し田道を行て温泉有よし聞くまま,案内を願て行けるに,道荒くして中程にて止て帰りける」と記される。なお,この温泉はのち山崩れによって埋没し,湯ノ沢は名だけとなる(国誌)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数24,村況は「海湄に住し,地中等,畑少し」という(同前)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数32・人口214(男105・女109),馬29,物産は米・鱈・鯖・桧。同22年奥内村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252374
最終更新日:2009-03-01




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