ケータイ辞書JLogosロゴ 元大工町(近世〜近代)


青森県>弘前市

江戸期〜現在の町名明治初年〜明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町町人地城郭の南側に位置する北は下白銀町,南は本町,西は道を隔てて塩分町に続き,東は元長町に接する町名の由来は大工職人の居住地であったことによると考えられる正保3年の津軽弘前城之絵図では町屋として町割りされているが,町名はない慶安2年弘前古御絵図では大工町として47軒の屋敷割りがあり,大工20軒余が見えるが,この他に医師松山玄三,左官・山師・木綿屋・居鯖・風呂屋各1,兵庫屋・秋田屋・越前屋・長浜屋などの商家も居住していた延宝5年の弘前惣御絵図では南大工町と見える同6年の弘前町方屋敷割では大工町および大工ヨコ町と見え,屋敷51があり,大工清兵衛ほか町屋37軒,ほかに武家・医者12軒がある元禄13年の町絵図では本大工町と見えるが,これは元禄年間に郭内武家屋敷の郭外移転によって城西地域に西大工町がつくられたためであろう宝永2年に当町の北側が家中屋敷となったが(津軽史),これは宝永年間の郭内武家屋敷の郭外移転に伴うもので,用心丹野序右衛門はじめ5名に,それぞれ820〜830坪の屋敷地が与えられている(国日記)享保4年頃の町屋数円によれば,当町西端の本町角に制札場が設けられている延享元年5月11日の大火で,当町の南側はすべて焼失した(津軽歴代記類)復興後の宝暦6年の親方町支配町屋鋪改大帳では,当町西端に名主会所が置かれている寛政6年に下白銀町との間の武家屋敷と御用地はすべて藩校稽古館の用地となった文化5年に藩校が縮小されて三の丸へ移ると,同敷地は空地となり,当町には家老喜多村監物が居住し北側に御蔵,南側に町蔵が設けられている(天保8年弘前絵図)文化6年の町絵図には上大工町と見える藩校の跡地には安政5年に医学館が開設され,文久2年には同館に種痘館も新設され明治6年まで続いた(弘前市史)明治初年の「国誌」によれば戸数40同19年津軽産業会館(通称本町倶楽部)が当町西南端に落成した(正面は本町)同22年弘前市に所属同年当町西端北側に私立弘前女学校が新築移転された同校は明治19年元寺町の弘前教会内に発足した来徳女学校(翌20年弘前遺愛女学校と改称)で,同34年坂元町へ移転するまで当町にあった明治以降当町は北の下白銀町の官公庁街と南の本町商店街の間の住宅街として今日に至っている昭和3年賦課戸数56世帯数・人口は,昭和25年110・469,同50年124・271,同55年120・285
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252564
最終更新日:2009-03-01




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