ケータイ辞書JLogosロゴ 薬師堂村(近世)


青森県>弘前市

 江戸期〜明治22年の村名。津軽郡平賀庄のうち。弘前藩領。村高は,「寛文高辻帳」1,671石余,「貞享4年検地水帳」616石余(田568石余・畑屋敷47石余),「寛文高辻帳」1,671石余,「天保郷帳」1,471石余,「旧高旧領」653石余。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「岡本・熊沢・石田・沢田・平山・長橋」があり,反別は田54町6反余・畑屋敷14町3反余(うち屋敷8反余),このうち田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。ほかに鷹待場とされる留山5か所,永荒田畑5町3反余,乳井城跡を指すものと思われる古館1か所があり,漆木は370本。元禄3年には大鰐組に属し,村位は中(平山日記)。集落は大鰐剣ケ鼻大道より黒石を経て浪岡村へ至る東根小道(乳井通)沿いに発達する。村内の寺社は,「貞享4年検地水帳」によれば,「高1石4斗5合 山伏地蔵院」と見え,同院抱えの薬師堂があるが,この薬師堂は現在字日照田にある熊沢神社を指すものと思われる。明治初年の「国誌」によれば,熊沢神社の祭神は少彦名命・軻遇槌命・武甕槌命,由来については延暦年間に蝦夷平定のために坂上田村麻呂が阿蘇ケ岳に勧請したといわれ,その後美麻坂坊が中興し,15代天祐が銭神石の山頂に遷し,22代覚琳坊が藩祖津軽為信に奉仕して,天正18年新たに社地を得た(現在地か)という。また相殿として,明治6年当村から遷した愛宕神と高畑村から遷した神明宮があった。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年南津軽郡に属す。明治初年の戸数68,村況は「土地肥壌,農耕を専とし余隙縄薦を造て日用の補とす」という(国誌)。同12年の「共武政表」によれば,戸数67,人口402(男217・女185),馬38,物産は米・大豆。同13年薬師堂小学を開設。同20年薬師堂簡易小学校と改称。同22年石川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252600
最終更新日:2009-03-01




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