八幡林村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「寛文高辻帳」52石,「貞享4年検地水帳」70石余(田11石余・畑56石余・屋敷地1石余),「天保郷帳」74石余,「旧高旧領」112石余。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「熊谷・三島・品川」があり,反別は田1町9反余・畑屋敷20町6反余(うち郷蔵屋敷もふくめて屋敷地2反余),田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。このほかに開発可能地(畑)2反余,漆林4か所・3反余,漆木2,033本,古川1反余,河原地6か所・8反余,空地2反余,永荒地(畑)5反余が見える。元禄3年は横内組に属し,村位は下(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある。当村は畑作を主とする村である。また,漆木栽培も盛んであった。当村の産土神は原別村の八幡宮である。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数11,村況は「啻畑多して田少し」という(国誌)。同22年原別村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252633
最終更新日:2009-03-01