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- 山下町(近世~近代)とは
「山下町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 山下町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治初年~明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町武家地城郭の東に位置し,西は徳田町,東は北瓦ケ町,北は北柳町,南は田代町と接する築城当初...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7252647]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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山下町(近世~近代) 江戸期~昭和5年の町名山下門外(現行の千代田区内幸【うちさいわい】町と有楽町の境付近)にあったので,名づけられた(府志料)一方,「備考」には山下町があるので山下御門といったとある山下門は古くは姫御門といわれ(備考),鍋島【なべしま】御門の俗称もあったまたこの付近は日陰町とも呼ばれていた(続砂子)明治元年東京府に所属同5年の戸数137・人口592(府志料)同11年京橋区に所属昭和5年銀座西5~6丁目に編入現行の銀座5丁目1~2番と6丁目2~4番 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山下町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名江戸期は金沢城下町のうち,地子町の1つ明治22年からは金沢市の町名もとは河北郡卯辰【うたつ】村の地内文政4年に町立てして成立町名は同時に町立てした山上町に対する名(古蹟志)「皇国地誌」は「山ノ上町四町目ノ東北端ヨリ東南ニ入ル小路ニシテ山上村ニ接ス」と記している大正5年の戸数20・人口54昭和41年山の上町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」