ケータイ辞書JLogosロゴ 横浜村(近世)


青森県>横浜町

 江戸期〜明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。野辺地通に属す。村高は,「正保郷村帳」86石余(田44石余・畑41石余),「貞享高辻帳」107石余,「邦内郷村志」558石余(うち給地47石余),「天保郷帳」458石余,「天保8年御蔵給所書上帳」584石余(御蔵高510石余・給所高74石余),「安政高辻帳」367石余,「旧高旧領」587石余。延宝4年の八幡神社別当大光院霞小村附には,横浜・吹越【ふつこし】・百目木【どめき】・牛ノ沢・桧木・大豆田【まめだ】・鶏沢・有畑の8か村として見え,のち延享5年に浜田が加わり,以後は横浜九ケ村と呼ばれた。古くには南部に泊川・大明神の各村があったが,正保〜明暦年間頃に潰れた(横浜家文書)。また,寛永18年の八幡神社棟札に見える荒内村は,延宝4年の「霞小村附」に見えないことから,この間に潰れたものと思われる。なお,「仮名付帳」には,横浜の枝村として浜田・有畑・鶏沢・大豆田・桧木・百目木・吹越の各村が見える。村民は製塩を行い,桧材・いりこの商品化により上方地方の商人と交易を行うものもあった。また,横浜集落の西方の海岸には横浜湊があり,すでに寛永21年には北郡八か浦の1つとして横浜湊の名が見え,重要な湊であった(雑書)。寛文元年3月晦日から5月3日までに着岸した商船は83艘あったといわれ(同前),材木を中心とした藩の交易港として栄えた。延享5年の家数214,馬442・牛377。藩牧の1つである有戸(蟻渡)牧に隣接し,冬季舎飼馬を多数預っている。「邦内郷村志」によれば,家数187,うち本村を除く集落別内訳は吹越14・百目木9・牛ノ沢11・桧木72・大豆田12・鶏沢9・有畑32・浜田9,馬数203,神社は八幡社・法量権現,寺院は盛岡大泉寺末竜幡山西福寺は,ほかに見性庵・阿弥陀堂・念仏堂がある。「本枝村付並行付」によれば,位付は下の下,家数203,集落別内訳は本村88・吹越6・百目木15・牛ノ沢10・桧ノ木22・大豆田12・鶏沢12・有畑31・浜田7。神社は桧木の八幡社,百目木の館林稲荷社,有畑の稲荷神社などがある(国誌)。なお,延享元年由緒世代書上帳(多門院文書)によれば,中世末期〜江戸初期当村内に大円坊の祖である玄俗院,鶏沢村の滝本坊,有畑村の明正院という3人の修験がいたという。とくに桧木村の八幡社の修験は玄俗院・三明院・大光院などと称し,はじめ羽黒派,寛文年間から本山派に属し,野辺地通一円の霞を支配する組頭であった。のち,明治6年にこの3系の修験(横浜村大光院・鶏沢村大正院・有畑村大行院)はそれぞれ還俗し,村内各社は大光院鈴木正録の奉仕となった。寺院は,阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西福寺が横浜にある。元禄8年大泉寺并末寺起立由緒記によれば,西福寺の開山は良実上人で,寛永元年の起立という。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。同11年上北郡に属す。明治初年の戸数207,村況は「郵便所・陸運会社を設,南有斗村・北中ノ沢村ともに中継の所なり,土地砂礫多く下之下,田少し,男は山にヒノ木材を出し,大葉櫟の皮を刮き,海に海参大口魚を捕て産とし,壮者は北海道に出傭す」といい,また,「何の頃にか越前三国の商吉左衛門なるもの通行し,ヒ材の許多なるを見て買利を思案し当村に寄住し,色濃と云木綿を持来り,ヒノ木長四尺二ツ割り木口横六寸高三寸にきりて桶を造るの材となし,これを寸模と云ふ,この寸模にて木理適宜に正直なるもの六片を木綿一反に替しにより,今に俚民色濃木綿を寸模と呼ふなり……吉左衛門に塩の煎しようを習ひ受しなりとあるは,金左衛門か良材を痛と云に依て考れは,以前より塩釜はあれとも,煎練の良法を習ひしなるへし」という(国誌)。明治7年横浜小学が開校,生徒数27。同14年有畑分教場を開設。明治12年戸長役場を村内寺下に設置。同年の「共武政表」によれば,戸数206・人口1,420(男736・女684),牛260・馬226,船8,学校1,物産は米・大豆・粟・そば・稗・大口魚・煎海鼠・鮫・材木。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252693
最終更新日:2009-03-01




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