ケータイ辞書JLogosロゴ 伊手村(近世)


岩手県>江刺市

 江戸期〜明治22年の村名。江刺郡のうち。伊手村宿ともいう。仙台藩領。村高は,寛永検地159貫余(田104貫余・畑55貫余),「元禄郷帳」1,429石余,「安永風土記」216貫余(田130貫余・畑86貫余),「天保郷帳」2,206石余,「旧高旧領」2,203石余。天正19年伊達政宗の所領となり,岩谷堂城(旧江刺城)に重臣を配して当地を統治させた。正保2年藤田但馬守が当村荒谷館に転封され,御預足軽20人を上町に置き治安・警備にあたった。延宝6年藤田氏断絶ののちは,奥郡奉行の代官(代官所は岩谷堂宿)のもとで東方大肝入支配となる。村の東南部を上伊手,西部を下伊手,北部を北伊手と通称する。村の中心は荒谷館のある伊手町で,浜街道の宿場であり,享保年間以来幕府巡見使の宿泊が数度に及ぶ交通の要衝であって,町検断・伝馬所・旅人宿などが置かれた。町場は本町・新町からなり,家数63・人数359(安永風土記)。寛永19年検地の郷村絵図では東西7,410間・南北5,400間。「宝暦風土記」の人数2,389。「封内風土記」の家数435。「安永風土記」によれば,蔵入地151貫余・給地61貫余,人頭479,家数499・人数2,520,馬743,神社は羽山権現社・深山権現社・稲荷明神社2・戸隠明神社・熊野権現社・疱瘡神社・明神社3・住吉明神社・地神社・神明社・山ノ神社2・八幡社・牛頭天王社・愛宕社2・二渡権現社・宇南権現社,寺院は曹洞宗報恩山明蔵寺・同宗心相山的叟寺・同宗大白山高林寺・真言宗如意山真行寺,修験は自性院・三条院・正善院・大智坊・善教坊・修善坊・長覚坊,ほかに観音堂・毘沙門堂・大師堂・薬師堂がある。観音堂は,廃寺立金山自性院の本尊を祀り,江刺三十三観音霊場第17番札所である。陸奥国開拓期の初め紀州熊野権現を勧請したと伝える字角屋の熊野神社では,伝統行事として毎年正月蘇民祭が行われる。寛政9年江刺郡一円の3,000余人による百姓一揆が蜂起し,17か条にわたる訴状をかかげて岩谷堂要害にせまったが,当村口沢の清三郎が頭取として斬殺された。宝暦年間町医河島潤安が当地に転住し,医業のかたわら寺子屋を開いて子弟を教え,また文政年間修験稲田恵俊の寺子屋は寺子100余人に及んだ。そのほか薬師堂別当稲田直江のほか,上伊手に菅野直記,下伊手に高橋西松・佐藤庄治郎らがおり,彼らの寺子屋は明治初年まで続いた。明治6年には伊手・上伊手・下伊手の3小学校が開校した。明治元年松本藩取締,以後江刺県,一関県,水沢県,磐井県を経て,同9年岩手県に所属。同年乙第11大区2小区に属し,第2番扱所が当地に置かれる。同12年村役所が置かれ,同17年戸長役場と変る。明治14年の村の幅員は東西約2里16町・南北約2里1町,税地は田219町余・畑344町余・宅地27町余・荒地52町余の計642町余,戸数477(うち農業468)・人数2,445(男1,255・女1,190),馬613,伊手小学校の生徒数173(男137・女36),物産は馬・米・大豆・小豆・柿子・生糸・魚網・薪・炭・姜活・蒼木。また金鉱2か所,銅鉱1か所がある(管轄地誌)。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7252954
最終更新日:2009-03-01




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