ケータイ辞書JLogosロゴ 岩屋戸(中世)


岩手県>江刺市

 戦国期に見える地名。江刺郡のうち。岩家戸・岩家堂とも記す。天正18年10月24日南部信直の書状に,「岩屋戸陣取之,江刺一辺被仕候共,おしゐ有間布候」とある。宛先は江刺殿(宝翰類聚)。岩谷堂城は郡主江刺氏の居所。柄杓城とも称する。戦国末期の天正17年9月17日,江刺兵庫頭のときに,玉崎観音の首が落ち,岩谷堂の本丸,毘沙門堂の大槻が倒れるという怪異があり,御城鎮守の館神たる毘沙門のお告げは江刺没落の前兆なりと出た。翌天正18年9月予言は当り,豊臣秀吉の奥州遠征によって江刺氏は没落した(岩谷堂妖怪の事/吾妻むかし物語下巻)。岩谷堂城は,小学校・高校裏の独立丘陵上にある(比高80m)。本丸〜三の丸からなる当地方随一の山城。東西350m・南北250m。本丸跡には八幡神社が建つ。空濠・水濠・土塁跡を残す。近世には桑折以下の伊達家重臣の居所となった(仙台領古城館)。真言宗岩屋戸山多聞寺は平安初期の嘉祥年中,慈覚大師の開基と伝える。初めは天台宗。医王山重染寺を末寺とする(安永風土記)。岩谷堂お館山八幡神社(旧多聞寺鎮守か)傍の板碑には鎌倉末期,延慶2年の銘がある。岩谷堂桜小路岩城氏宅には,岩谷堂城三の丸にあった南北朝期の康永2年銘板碑がある(岩手の歴史論集2)。天正19年伊達政宗の所領になると,地内の岩谷堂城にはその家臣桑折摂津守が入城した。その後,古田伊豆守・増田将監・藤田但馬守・古内伊賀守などが入ったといわれ,万治2年伊達氏の一門岩城宗規が同城に封ぜられ,岩谷堂城の整備を行い,以後明治維新まで9代にわたって居住した。岩谷堂の地は,江戸期には片岡村のうちに含まれるようになり,岩谷堂の名は片岡村の中心をなす町場の通称名である岩谷堂町(岩谷堂宿)として残っている。この岩谷堂町は,江刺代官所の所在地として江刺郡の統治の中心地となり,また,北上川舟運,気仙・東山方面の陸路を扼す交通の要衝として宿場をなした。江戸中期の岩谷堂町には横町・川原町・中町・一日市町・六日町・銭鋳町・新町の7町があり,また家中屋敷の桜小路・中曽根小路・新小路・元六日町・だるま小路・服部小路が岩城氏の居館の周囲にあり,さらに足軽町として田町・薭田町・新町・形じけ小路・耳取町があった(安永風土記)。明治2年には旧代官所に江刺県庁も設置され,引き続き江刺郡の中心地として発展した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7253014
最終更新日:2009-03-01




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