ケータイ辞書JLogosロゴ 永徳寺村(中世)


岩手県>金ケ崎町

 戦国期に見える村名。伊沢郡のうち。曹洞宗報恩山永徳寺の在所。永禄3年4月24日葛西晴信は「伊沢郡永徳寺一村」を「亡父親石見守平親信」の菩提のために寄進,その宛名は「永徳寺殿」とあった(永徳寺文書)。ただし,永徳寺村の名称は南北朝期にまで遡ると伝える。「寺窪村」の旧名を改めて「永徳寺村」と称したのは北朝年号の永徳3年とされる。あるいはまた葛西晴信の寺領寄進があった永禄3年ともいうが未詳。報恩山永徳寺は南北朝期の延文元年道叟道愛和尚の開山。同じく応安5年10月23日には,後円融天皇の綸旨を賜り,「曹洞之本寺」(出世勅願の道場)の地位を与えられた(永徳寺文書)。室町将軍足利義満よりも,伊沢郡若柳村のうち五器田・箸田・石仏・銭蔵,同じく柳田村のうち五輪塔・鹿合などに寺領3万8,000苅の寄進があったと伝える(安永風土記)。道愛和尚は黒石正法寺開祖無底和尚を補佐して三郡頭陀(江刺・伊沢など)の功績をあげ,その法嗣となった人物。正法・永徳両寺の関連浅からざるゆえんである。永和2年の正法寺本寺規矩之事には,兄弟の間柄ともいうべき両寺の関連が記されている(正法寺文書)。明徳3年正法寺開山無底和尚三十三回忌も永徳寺の同意のもとに営まれた(正法年譜住山記)。戦国期の天正14年頃前沢三田氏と柏山一族小山氏との争いに際しては,正法・永徳両寺の僧が種々の斡旋(調停工作)を働いたことが知られる(柏山平左衛門先祖の事)。天正19年豊臣秀吉の第2次奥州仕置に際しては,石田治部少輔(三成)・大谷刑部少輔(吉継)の制札2通が永徳寺門前に立てられ,境内における軍勢の乱妨狼藉・四壁竹木伐採などのことが禁じられた(永徳寺文書)。近世における永徳寺の末寺は郡内のみで14か寺,奥羽2州を総計すれば408か寺とされた(安永風土記)。永徳寺寺窪の山(三)居寺館は朝倉氏宅西面の丘陵上にある。空濠・土壇などの跡が残る。本丸は比高40mの台地。東西80m・南北50m。館主不明。ふもとの朝倉氏宅付近は山居寺の旧跡という(仙台領古城館)。永徳寺春宮田の細越館は山居寺館の西方,峰続きの小山にある。直径40mの円形平場(本丸)の下方を数段の土壇が同心円状にとり巻く。基部には深い空濠がめぐる。東西100m・南北50m。比高60m。細越坂の地名も近くに残る。館主不明。永徳寺館は永徳寺裏の絶壁上にある。土塁・空濠が残る。東西200m・南北20m。館主不明(同前)。村鎮守の寺窪熊野神社は元享(ママ)2年葛西晴信の勧請と伝える。同所の牛頭天王社は永享12年朝倉少将義光の建立。最初の社地は胆沢川(天王河原)端にあったという(安永風土記)。南海の白山社は葛西一族柏山伊勢守の勧請。河原の愛宕社は源頼義・義家の勧請と伝える。永徳寺境内の伊勢社は開山道叟和尚の勧請。寺窪の羽黒派修験月行院内の地蔵堂は柏山伊勢守の勧請とされる。また寺窪の当山派修験正房院は正楽院義盛の永享12年の開院。それ以前は社家で,宮野大夫・次郎大夫などと称したという。寺窪すなわち寺蜘の寺名は熊野社の大木に3尺の大蜘(くも)が住み人々を苦しめたことに由来する。中将という人物がその蜘を退治して埋めたという蜘塚もあった(同前)。寺窪の正寿院永照寺の旧跡には,中世の板碑1基がある(岩手の歴史論集2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7253072
最終更新日:2009-03-01




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