ケータイ辞書JLogosロゴ 達曽部村(近世)


岩手県>宮守村

 江戸期〜明治22年の村名。閉伊【へい】郡のうち。盛岡藩領。享保20年大迫通に属す。村高は,「正保郷村帳」237石余(田147石余・畑89石余),「貞享高辻帳」296石余,「邦内郷村志」「天保郷帳」ともに957石余,天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」では村高957石余(うち蔵入高399石余・給所高551石余),「安政高辻帳」768石余,「旧高旧領」957石余。「仮名付帳」によれば,当村の枝村に米田村が見える。「邦内郷村志」では,家数248,馬435,当村には本村のほか4集落がある。「本枝村付並位付」によれば,位付は中の上,家数263,集落別内訳は,達曽部38・梨子木平6・山口5・湯屋12・鷲ノ口2・新町5・坂本6・高橋3・駒場2・荒屋5・米田23・芋野17・小柳13・中野9・大畑13・武道ケ口3・中斎12・横川目8・栃山3・栗屋敷4・中島11・武名の木3・大豆畑7・小通9・湧水18・岩森5・白石14・長崎7。享保16年大迫通坪役銭反対一揆,宝暦4年大迫通御用金反対一揆,寛政7年大迫通一揆,天保4年達曽部村塩騒動,天保7年大迫通穀改反対一揆などが起こった。文政11年の菊池林文書によると,地質は達曽部柏木は赤土,同南栗屋敷は小石交り砂地と見える。また,近世末期になると,当地でも大迫煙草の生産が盛んとなったほか,紫根染(南部紫)が生産された。文政11年熊谷検断書によれば,達曽部町検断理左衛門から下宮守荒町検断にあてて紅花栽培者に対する協定文書が出された。嘉永2年,当村の川道の石を砕き,道普請を願い出て許可され,家別に20人ずつの人足を出し普請を終えた(嘉永3年諸用留帳)。七里塚碑が,高橋と小柳にある。釜石街道の宿駅が置かれ,古くから物資の往来があり,宿場町として栄えた。天明三〈癸卯〉凶作記によれば,新町伝六下人,達曽部へ駄賃荷附に行った折,狼に馬3疋が歯をかけられ,2疋は深手をおったとの記事が見える。俗に殿様道路といわれる道が通り,大迫村・達曽部村より坂本高橋の坂道を登り,磔峠を越え,下って塚沢の児野【ちぐの】に行き,さらに下宮守に出て小峠を越え,遠野山口を通るのが本道筋で,ほかに達曽部村から下宮守村への道は内楽木という山路を越え塚沢へ出る道がある。寺社は,八幡宮(村社)・稲荷神社・熊野神社・山祇神社・駒形神社,臨済宗妙心寺派金竜山宝泉寺・真宗西峰山永林寺がある。また,修験の羽黒派善正院・実法院・大蔵坊があり,オシラ神信仰が伝わる。明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年西閉伊郡に属す。明治9年達曽部学校を開設,教員4,生徒数68(うち男63・女5)。同12年の村の幅員は東西1里・南北2里14町,税地は田110町余・畑304町余・宅地26町余・切替畑9町余・荒地12町余など計464町余,戸数263・人口1,525(男795・女730),横田警察署達曽部分署がある。職業別人口は,農業255・工業2・雑業2,物産は馬・鶏・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・煙草・藍・麻布・生糸・真綿など(管轄地誌)。明治12年達曽部村役所が置かれ,同17年下宮守村戸長役場の管下となる。同19年の県第3次勧業統計表によれば,煙草生産販売量1万3,500斤。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7254151
最終更新日:2009-03-01




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