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- 中野(中世)とは
「中野(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 中野(中世) 南北朝期から見える地名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 織豊期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 鎌倉期から見える地名薩摩国入来【いりき】院のうち建長2年12月の入来院内村々田地年貢等注文の副田・清色・市比野の村々のところに「廿 なかのゝ寺田」と見える(入来文書)また,元亨2年3月13日の入来院内清敷南方水田検注帳には,「中野迫頭分……以上丁三反廿 中野弥三郎分……以上丁四反中 中野孫太部分……以上二丁三反十」などと見える(同前)下って長享~延徳年間作成と推定される算田日記にも「中の門」がある(同前)入来川中流左岸,海抜100mの火山灰台地で,現在入来町浦之名字中野原【なかのはる】があるが,同地は現在ほとんどが畑地である中世中野の住民の耕田は台地上にはなく,台地周縁部から湧出する泉水を利用していたため,台地へ登る山峡地に開かれていた現況も当時と大差はないようである中野の在家は同地に祀る智賀尾神社の司祭者として現在に至り,その祭祀を続けている江戸期は中野姓を水田地区名の池頭に改め,中野門の後裔は現在も池頭姓を称している中野原台地は北西部の隣町樋脇町塔之原の鍋原【なべのはる】に続き,延長4kmに及ぶ広大な台地で,全面に中世~近世に開かれた堀町の堀が縦横に通り,所領の境域を示す通路ともなり,また戦略上は重要な防塁ともなっていた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 鎌倉期~室町期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中野(中世) 南北朝期に見える地名長門【ながと】国厚狭【あさ】郡のうち貞治3年10月20日の浄名寺領知行分目録の中に「一,須恵分」として「一所壱反六十歩中野益吉名内」「一所中野新田」等が見え,長門守護厚東武実の寄進によるものであった(寺社証文9)須恵半島基部東側には厚東【ことう】川河口があり,土砂の堆積により河口一帯の潟地には新田が形成されつつあった須恵半島の中程,旧海岸沿い,真宗蓮光寺から南,松郷八幡宮に至る間に中野の小字があり,江戸期は東須恵村に属した当地の沖に中野開作が築き立てられるのは江戸期のことである... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」