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- 矢沢村(近世)とは
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矢沢村(近世) 江戸期~明治初年の村名三戸郡のうち浅水川の河口付近に位置する「三翁昔話」などによれば,永禄10年当地を支配していた櫛引氏が根城を攻撃したため,4年後の元亀2年に報復を受け,以後根城南部氏領になったというはじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領長苗代【ながなわしろ】通に属す元和4年の南部利直知行宛行目録(遠野南部文書/岩手県戦国期文書I)に「矢沢」とあり,近世初期は根城南部氏の知行地であった村高は,「正保郷村帳」241石余(田222石余・畑18石余),「貞享高辻帳」241石余,「天保郷帳」322石余「元禄10年高帳」「旧高旧領」には村名が見えないなお,「元禄10年高帳」には根岸村の項に「矢沢村に成る」と注記しているが,位置関係や村高からみて同一村とはみなしがたい「八戸藩日記」に「矢沢根市橋」とあり,当村と根市を結ぶ橋のあったことがうかがわれる明和7年5月には火事で5軒を焼失(同前)宝暦5年の堂林寺門間数改書上帳(常泉院文書)に「矢沢村清川観音堂」とみえ,地内の中崎には千代川観音堂がある明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属明治初年の家数42軒,「平地に住し耕耘を専とし又商工あり壮男は北海道に渡て傭作す田多けれとも土地菲薄にして作得微く,畑麦に宜し」とある(国誌)明治12年の「共武政表」には大仏村の字として見え,戸数・人口は46・369(男187・女182),牛4,馬79・人力車6,物産は米・麦・雑穀・蔬菜・麻糸・鳥類「国誌」では,当村を花崎村の支村とし,従来は大仏村の支村であったが,のち花崎村に民居がなく,矢沢から入作していたことにより矢沢を花崎村の支村としたという「旧高旧領」に村名が見えないことから,江戸末期~明治初年に大仏村や花崎村の支村として扱われることになったものと思われる現在の八戸市尻内町・一番町の一部にあたり,国鉄八戸駅の西方に矢沢橋として名をとどめる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
矢沢村(近世) 江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
矢沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
矢沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」