ケータイ辞書JLogosロゴ 鶯沢村(近世)


宮城県>鶯沢町

 江戸期〜明治22年の村名。栗原郡二迫のうち。村域は南郷・北郷に区分され,端郷に袋村があった。端郷袋には別に肝煎がいた。「元禄郷帳」の村高は3,520石余,「天保郷帳」では4,202石余(ただし端郷袋村を含む)。「安永風土記」によれば,村高は田代294貫余・畑代31貫余(うち茶畑代80文)で計325貫余,うち蔵入地26貫余・給所295貫余。人頭は寛永検地時の29から295に増加,295人のうちには寺2か寺・金掘2人・給人抱地指引2人を含む。家数は317(うち借屋18)。人数1,425,馬数240。神社は村鎮守八幡社など48社。仏閣は大伝馬堂・観音堂など13宇。寺は曹洞宗鶯沢山金剛寺・天台宗熊野山宗法寺の2寺。修験は羽黒派宝寿院(源沢寺塔頭)・同祇園坊・同覚善院・同覚宝院。当村は竪大道1里6丁30間・横大道1里16丁40間の大村で,御林14か所・堤16か所・堰3か所を数え,村内を二迫川・鉛川・下熊川3流と大道4筋が走っていた。また細倉山勝袋には天正年間より掘り始めたという鉛御金山があり,その他,鵆館・秋法館・計須見館と称する古館3か所,遊行塚・節女塚と称する古塚2か所があった。金剛寺境内の節女塚は,南北朝末期,実の父を客とした身の不幸を悲しみ二迫川の淵に身を投じた鍋子という遊女がおり,郷民が憐れんで鍋子を葬ったものという。以後,鍋子が投身した淵は鍋子ケ淵と称され,のちこれを知った実父小林修理が鍋子の菩提を弔うため建立したのが金剛寺であると伝える(奥羽観蹟聞老志・封内風土記・封内名跡志・安永風土記)。現在二迫川のほとり栗駒町文字下字中山に自然石の碑が建っている。なお,地内北郷松ケ崎の二迫川畔には菩提石があり,高さ約3m,廻り約12m,石の上部に60cm四方・深さ30cmの水溜がある名石として「安永風土記」にも書き上げられている。往古遊行上人の塚と言い伝えられたため,菩提石の名が出た。雨乞い石とも称し,雨乞いに石上で火を焚いたため頂上にくぼみがあるとも伝えている。明治元年宇都宮藩取締地,以後,栗原県・胆沢【いさわ】県・登米【とめ】県・一関県・水沢県・磐井【いわい】県を経て,同9年宮城県栗原郡に所属。同22年の町村制施行以後も端郷袋村を合わせ栗原郡下の単独村として存続。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7255494
最終更新日:2009-03-01




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