ケータイ辞書JLogosロゴ 鹿又村(近世)


宮城県>河南町

 江戸期〜明治22年の村名。桃生【ものう】郡深谷代官区二十六村のうち。文禄元年正月検地のとき,葛西氏家臣だった高橋美濃ら19人が帰農し,73石の新田を開発したという(安永風土記)。寛永11年の村高145石余(宮城県史)。正保元年本町【もとまち】に宿場を設け39軒が伝馬に従事,承応元年には町割を替えて,法楽院側3丁6間を本町とし,光明寺側,3丁40間を新町,両町境の道筋1丁28間を横町とした(河鏡院光明寺史考・河南町誌)。宿駅は寛文3年まで本町が勤め,以後は新町,延宝元年以降は横町に変わった。町場には,安永の頃人頭150の家があったという(安永風土記)。寛文2年広淵大堰から山根用水と大用水を導き,同4年には村の中央低地の灌排水のため嘉右衛門堀を作った。広淵村に至る道は同3年の完成で,道筋に八幡社西辺の民家60戸を移住させ新鹿又とし,宿場のある方を本鹿又【もとかのまた】と称した。元禄2年瀬上筑後景之が所【ところ】を拝領,2,000石を知行し侍屋敷34・寺2・足軽屋敷20を所有した。「封内風土記」によれば戸口251。神社は八幡宮など5社,寺は光明寺・東持院のほか,瀬上氏菩堤寺の総禅寺があり,塩倉1があった。安永5年の村況は,村高6,287石余,うち田代6,119石余・畑代176石余。蔵入地4,755石余・給所1,532石余。人頭は261で,寺1と給人抱え地8を含んでいる。家数は252,男851・女704。村に103人,宿場に150人が居住していた。高瀬舟2・平田舟2・さっぱ舟11を所有して商荷の運送に当て,他に瀬上氏専用の舟4があった。代数ある百姓は17,うち7代相続3・6代4・5代5・品替え百姓で8代相続1がある。馬129匹を飼育。蔵場は1で8棟の倉庫があり,延宝2年に建てた塩蔵も1棟あった(安永風土記)。「石之巻御登せ米留帳」によると,ここに御石改所があって,改め役2・手代2が置かれ,御石改め横目1が常駐したという。曽波神に松林3か銘,雑木林1か銘があった(安永風土記)。寛政年間,国学者・歌人として藩内で著名な塩竈神社神官藤塚式部知明が瀬上家預りとなり,ここに蟄居して11年に死んだ。同年の詩歌集「鹿又八景」は彼の撰で,渡し場・八里原・光明寺・谷地中・佳景山・中山・八幡社・天王河岸の8景を美しく詠んでいる(河南町誌)。村の北界をなす北上川は,新田町上が享和元年に決壊してからたびたび出水。篤志家が私財を投じて修復,文久3年志賀慶沼の努力で防ぐことができ,以後離村者は少なくなった(河南町誌)。天保5年の村高6,249石余(天保郷帳)。天保の飢饉では7年に114人,8年に348人が餓死,安政3年光明寺で23回忌の供養をしている(宮城県史)。安政6年の瀬上景禄の村内知行高は本鹿又600石余・新鹿又410石余・新田町164石余・梅ノ木奉行人前489石余であった(河南町誌)。明治元年高崎藩取締地,以後,桃生県・石巻県・登米【とめ】県・仙台県を経て同5年宮城県に所属。同3年の村高6,291石余(陸前国牡鹿郡桃生郡本吉郡郷村高帳控/石巻市図書館蔵)。同6年鹿又小学校が教員2で開校,翌年梅ノ木の総禅寺に支校を設置,のち梅ノ木分教場と称した。同14年および同22年,排水問題で前谷地【まえやち】村と争う。前谷地村が鹿又を貫通する自村の排水路を計画したためで,文政13年の争いの再燃となった。同22年町村制施行に際し,単独で自治体を組織,桃生郡鹿又村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7255916
最終更新日:2009-03-01




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