ケータイ辞書JLogosロゴ 給分浜(近世)


宮城県>牡鹿町

 江戸期〜明治22年の村名。牡鹿郡遠嶋十八成【くくなり】組大肝煎扱のうち。江戸期を通して藩蔵入地。元禄期の村の状況は「牡鹿郡万御改書上」によれば,村高130石余(元禄郷帳では105石),海上高77石余,人頭48・人数552(うち男318・女234),給分浜在家東西20間・南北2丁54間,肝煎彦右衛門。給分浜より他所への駄賃は,十八成浜へ本荷32文・軽尻21文。小網倉浜へ本荷23文・軽尻15文。谷川浜【やがわはま】へ本荷31文・軽尻20文とする。仏閣に十一面観音堂があり,国重要文化財指定の本尊十一面観音像は像高およそ3mの大像。鎌倉期一木彫の古様を伝える。海を漂っているのを拾われてここに安置されたという。他に薬師堂がある。神社は鳥海神社,これは鳥海弥三郎宮ともいうように,安倍貞任の弟の家任,すなわち鳥海弥三郎がまつられている。このほかに,三宝荒神社・神明宮など7社。この方面は慶長16年11月にイスパニア使節セバスチャン・ビスカイノが港湾の調査探険した所で,その「金銀島探険報告」にもふれられ,仙台藩の江戸廻米の中継地として栄えた。「寛政年間仙台領御村調」によると穀倉1,石改番所が置かれていた。寺は明暦年間開山と伝える真言宗観持山持福院。「封内風土記」の戸口108。「天保郷帳」の村高141石余。明治元年高崎藩取締地,以後,桃生【ものう】県・石巻県・登米【とめ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同22年牡鹿郡大原村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7256136
最終更新日:2009-03-01




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