ケータイ辞書JLogosロゴ 気仙沼本郷(近世)


宮城県>気仙沼市

 江戸期の村名。本吉郡北方のうち。初期には気仙沼七邑(気仙沼・赤岩・新城・月立・鹿折【ししおり】・唐桑【からくわ】・小原木)で構成。寛永19年の仙台藩惣検地を受け気仙沼七邑各村が独立,気仙沼は気仙沼本郷となる。鴇田淡路の知行地(3,000石)。寛文以後は藩蔵入地。寛永4年笹町七郎右衛門・山崎平太左衛門が代官として当地に居住。元禄5年八日町に代官所ができ熊谷儀兵衛が代官屋守を勤めた。天保8年大飢饉の時の奉行は岡七郎兵衛,代官は伊庭宗七郎である。大肝煎役を勤めた人々には八日町熊谷(儀兵衛の末裔)・同町熊谷(熊太)・三日町昆野・新町大森・内の脇熊谷・館森斎藤・津谷佐藤・津谷末永等の名が記録に見える。三日町・八日町は伝馬を出し公用の用達をしたので御伝馬町といい,気仙沼本郷宿であった。釜の前には御船賦【おふなぶ】があり,公用の荷物・役人の送迎に当たった。三日町・八日町住居の百姓は1戸ずつ順々に人馬を出して伝馬を勤め,これを御伝馬仕者といいその係を馬さしといった。安永年間の戸口768・人数3,900。「天保郷帳」の村高1,393石余。本郷と称した細浦の地は,漁業や製塩業が盛んに行われていたので製塩にちなみ釜の前【かまのまえ】とも称した。釜の前は当地方随一の良港で,300〜500石積「親船」による「登セ商」の基地。慶長16年イスパニアの使節セバスチャン・ビスカイノはその「金銀島探険報告」の中で江内に5つの港のあることをいい,「これまで見たる港のうち最良なるものの1つ」と激賞。幕末には北走する榎本武揚艦隊の来航もあった。現在釜の前・西風釜の地名がある。元和年間金山・製鉄が興り,近郷の鉱産・農産・水産・藍等諸物資の集散の中心地となり遠く江戸まで交易があった。神社に羽黒神社・五十鈴神社・北野神社があり,寺院では天台宗海岸山観音寺・曹洞宗白華山補陀寺・指月山少林寺・遠浦山青竜寺・日蓮宗久栄山法玄寺・法華寺・本門仏立宗信慈山清護寺がある。明治元年高崎藩取締地,以後,桃生【ものう】県・石巻県・登米【とめ】県・一関県・水沢県・磐井【いわい】県を経て,同9年宮城県に所属。当初三日町に村役場が置かれたが,西風釜堺屋田村屋敷,八日町智光院に移転,同10年に三日町古御堂に移る。同15年頃の戸数879・人口4,523。同22年本吉郡気仙沼町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7256207
最終更新日:2009-03-01




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