ケータイ辞書JLogosロゴ 米積郷(中世)


宮城県>宮崎町

 鎌倉期から見える郷名。加美郡のうち。初め穀積【こくづみ】郷,のち米積【こめづみ】郷。両者同じもので,それが米泉村になったと考えられる。初見は「倉持文書」文永3年4月24日付の足利家時下文で「下す 賀美郡内穀積郷 補任す地頭代職并びに足利内平右衛門入道跡 国府野屋敷壱所等事 左衛門尉忠行」とある。同文書永仁4年3月11日付の倉持左衛門尉宛足利家時下文にも「賀美郡内穀積郷・沼袋郷半分・中新田郷内屋敷田畠」領掌のことが記されている。この穀積郷は,同文書正安2年4月25日付の倉持家行譲状,乾元2年閏4月12日付の足利貞氏下文,貞和4年9月日付の倉持忠重安堵申状案,貞和4年11月7日付の倉持胤忠宛足利直義下文,貞和5年9月4日付の倉持忠重宛胤忠譲状,応安4年4月20日付の倉持孫三郎宛倉持胤政譲状では,すべて米積郷になっており,足利氏のもとに倉持氏が一貫してその地頭代職,室町幕府成立後は独立地頭としての支配を続けている。「伊達治家記録」天正14年条,大崎領内に新井田刑部の内訌があったとき,これに与党した者に「加美郡米泉城主笠原権右衛門」がいるから,戦国期は笠原氏に変わっており,「古城書上」では米泉城主笠原氏は米泉氏と呼ばれている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7256334
最終更新日:2009-03-01




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