ケータイ辞書JLogosロゴ 志津川町(近代)


宮城県>志津川町

 明治28年〜現在の本吉郡の自治体名。本吉郡本吉村が町制を施行,改称して成立。大字は編成せず,町役場は本吉村役場を継承。役場は明治39年上の山,同40年五日町に移り,同43年塩入に新築。同34年の戸数826戸・人口4,892人,大正9年1,147戸・6,488人,昭和22年1,629戸・4,459人。明治29年の三陸大津波では海岸部の沖の須賀・荒砥・袖浜・平磯・清水・細浦に被害があり,死者375・負傷165・家屋流壊172・半壊28に及ぶ。荒砥地区は62戸・496人中,死者30・負傷16,家屋流・半壊25。袖浜地区17戸146人中,死者11・負傷3,家屋流・半壊11。平磯地区は54戸・179人中,死者10・負傷6,家屋流・半壊10戸。合計133戸・821人中,死者51・負傷25,家屋流・半壊46に達する大惨害を受けた。清水地区は65戸・396人中死者168・負傷75,家屋流・半壊62。細浦地区は37戸・275人中死者122・負傷15,家屋流・半壊34。計102戸・671人中死者290・負傷90,家屋流・半壊94。ほとんど全滅に近い大被害を受けた。沖須賀埋地で62戸・327人中,死者34・負傷50,家屋流壊43・半壊15に及ぶ大被害があった。次いで昭和8年の三陸津波は負傷3,家屋流半壊5,流失漁船155,護岸堤防破損9か所の被害を出し,こののち「地震があったら津波の用心」と刻した大震嘯災害記念碑が町内3か所(町・清水・細浦)に建てられた。昭和35年のチリ地震津波では死者41・負傷500,流失家屋312・全壊653・半壊364で,被害総額は約65億円に達した。また昭和12年には町内五日町より出火,十日町・横町の大半336戸を焼失,罹災者1,500余人に及び,江戸中期享保8年448戸,天明4年104戸焼失以来の大火となった。この間大正15年には町内に設置されていた郡役所が廃止されたが,のち昭和15年に本吉地方事務所が設置され,再び郡行政の中心地となった。第2次大戦後昭和30年には本吉郡入谷・戸倉両村と合併,現行の志津川町が成立。合併時の面積・人口は,志津川町37.71km[sup]2[/sup]・10,218人,入谷村41.14km[sup]2[/sup]・3,604人,戸倉村45.47km[sup]2[/sup]・4,358人,合計124.32km[sup]2[/sup]・18,180人。旧入谷・戸倉両村役場にそれぞれ支所を設置したが,昭和37年閉庁した。なお,当町内「志津川湾」は昭和5年「新東北十景」海岸の部第1位に入選,昭和43年南三陸海岸県立自然公園,同54年南三陸金華山国定公園に指定され,同52年の国鉄気仙沼線全通と相まって,観光地としても脚光を浴びつつある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7256514
最終更新日:2009-03-01




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