ケータイ辞書JLogosロゴ 馬場谷地村(近世)


宮城県>涌谷町

江戸期〜明治22年の村名遠田【とおだ】郡のうち涌谷伊達氏の知行地江合【えあい】川(玉造川)右岸の沖積平地に位置し南端は出来【でき】川東部に花勝【けかち】山,東端に名鰭【なびれ】沼があり,沼周辺は江戸期には萱原の谷地であった地名の由来は江合川岸に馬場があり,地は谷地続きであったことによると伝える江合川を隔てて遠田郡涌谷【わくや】村城山に涌谷伊達氏の居館涌谷城があり,花勝山北端に六郎館跡があった「元禄郷帳」の村高2,525石余,「天保郷帳」では4,641石余「安永風土記」によると人頭74で一円町住居家数211(うち借屋135)・人数769・馬59村鎮守は新山権現社,寺は浄土宗紫雲山光明院・時宗小堤山永福寺・真言宗蓮谷山福成院の3寺,修験は玉洞院・正宝院・正音院の3か院があった福成院と修験3か院は現在はない光明院に室町期の阿弥陀如来・地蔵菩薩・涅槃図・曼荼羅図がある村内には本町【もとまち】4丁30間・新町【しんまち】3丁37間・川原町【かわらまち】2丁20間から成る宿場町涌谷町があった本町は慶長10年,新町は延宝4年にそれぞれ起立家数は本町64・新町36・川原町26で伝馬役以下諸役を負担市日は本町が正月9日,新町同月19日で,盆の7月9・12日と年末12月24・28日には涌谷伊達氏の家中足軽が警固に出た町に肝煎・検断が置かれ町奉行が支配した(亘理家文書)また涌谷伊達氏家中小路が浦丁【うらちよう】・田丁・新小路・長柄丁【ながえちよう】・柳丁・立丁【たつちよう】・追廻丁【おいまわしちよう】・練牛丁【ねりうしちよう】・六軒丁・苅萱町【かりかやちよう】・田沼丁・川原丁【かわらちよう】・中島丁・桜丁の14丁あり,涌谷3町を取り囲んで古川道・石巻道・小野道・仙台道等に士卒の屋敷が割り当てられた新町西端の仙台道出入口には枡形【ますがた】が設けられていた涌谷居館下の江合川に架かる大橋によって涌谷村と馬場谷地村は一体となり涌谷伊達氏の城下を形成河原町西端に蔵場があり江合川河岸には穀船が浮かんだ明治元年土浦藩預り地,以後,涌谷県・登米【とめ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属同年の戸数982(宮城県国史)村は洪水ごとに江合川堤防が破れ氾濫にしばしば苦しんだ明治8・22年は大水害があった同7年涌谷郵便取扱所,同11年遠田郡役所,同12年涌谷警察署が置かれる同16年石巻別街道(涌谷〜広淵間)改修工事,同18年涌谷新町から小牛田【こごた】町に至る新街道築造(現在国道108号)同19年涌谷新町西端の旧枡形に遠田郡役所庁舎の新築竣工涌谷尋常高等小学校新築校舎が落成した江戸末期から養蚕が盛んに行われ同21年郡立養蚕伝習所が開設した同22年町制を施行し遠田郡涌谷町となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7257282
最終更新日:2009-03-01




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